甲府勤番中は、陰では誰ひとり、阿古十郎などと呼ぶものはなく、『顎』とか『顎十』とか呼んでいた。
 もっとも、面とむかってそれを口にする勇気のあるものは一人もいない。同役の一人が阿古十郎の前で、なにげなく自分の顎を掻いたばかりに、抜打ちに斬りかけられ、危《あやう》く命をおとすところだった。
 またもう一人は、顎に膏薬を貼ったまま阿古十郎の前へ出たので、襟首をとって曳きずり廻されたうえ、大溝《おおどぶ》に叩きこまれて散々な目に逢った。阿古十郎の前では、顎という言葉はもちろん、およそ顎を連想させるしぐさは一|切《さい》禁物なのである。
 そういう異相を振りむけて、森の木立の間を覗きこんで見ると、『八幡の座』と呼ばれている苔のむした石の祠のそばに、払子《ほっす》のような白い長い顎鬚をはやした、もう八十に手がとどこうという、枯木のように痩せた雲水の僧が、半眼を閉じながら寂然《じゃくねん》と落葉の上で座禅を組んでいる。
 阿古十郎は、枯葉を踏みながら、森の中へ入って行くと、突っ立ったままで、懐中から手の先だけだして、ぽってりした顎の先をつまみながら、
「お坊さん、いま、手前をお呼びとめになったのは
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