住み切れねえ。……おい、またしばらく厄介になるぞ」
「あっしらあ、先生に行かれてしまってから、すっかり気落ちして、とんと甲府のほうばかり眺めて焦れわたっておりました。……おい、みんな、先生が帰って来なすった。……早く、来い来い……」
 奥からバタバタと駈けだして来た陸尺に中間。
「いよう、先生、ようこそお帰り」
 と大はしゃぎ。担ぐようにして奥へ持って行く。
 その翌朝、七ツ頃、顎十郎は岩槻染、女衒《ぜげん》立縞の木綿の着物に茶無地の木綿羽織。長い顎を白羽二重の襟巻でしっかりとくるんでブラリと脇阪の部屋を出る。亀の子草履に剥げっちょろの革の煙草入を腰にさげているところなどは、どう見ても田舎の公事師《くじし》。
「どういういきさつなのか知らないが、いずれ曰くは目安箱の中にある。……ところもあろうに評定所から目安箱を盗み出すなどというのは、少々、申訳がないが、国の乱れを防ぐというのでありゃあ、それも止むを得んさ。……まあまあ、やって見ることだ」
 ブツブツ言いながら、お濠ばたへ出、和田倉門を入ると突当りが町奉行御役宅。その右が評定所。老中と三奉行が天下の大事を評定する重い役所で、公事裁判も
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