りんになっているその女なのだった。こんなことを言っている。
「……殺すというなら、お殺しなさい。……わけはないでしょう、この綱をスッパリと切りさえすればいいんですからね。どうせ、あたしはこんなふうにがんじがらめになっているのですし、こんなはげしい流れなんだから、あたしは溺れて死ぬほかはない」
 上のほうでは、押し殺したような含み声で、
「誰も、殺すとは申しておらぬ。……一言、言いさえすれば、助けてやると言っているのだ」
 低い声だが、深い峽《はざま》に反響して、言葉の端々まではっきりと聞きとれる。
 下のほうでは、ほ、ほ、ほ、と笑って、
「……なんですって? 白状するなら助けてやるって?……冗談ばっかし!……あたしが、そんな甘口に乗ると思って?」
 上のほうでは、また、別な声で、
「いや、かならず助けてやる。……たったひと声でいいのだ……早く言いなさい」
「そう言う声は、お庭番の村垣さんですね。……お庭番といえば将軍さま御直配の隠密。……吹上御殿の御駕籠台《おかごだい》の縁先につくばって、えへん、とひとつ咳払いをすると、将軍さまがひとりで縁先まで出ていらして、人払いの上で密々に話をお聴
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