当なし。……あの世もこの世も、これがギリギリのお別れです。……では、さようなら」
ピョコリとひとつ頭をさげると、冷飯草履をペタつかせながら、街道の夕靄の中へ紛れこむ。
宙吊女
今夜のうちに千住までのす気で、暗い夜道を国府台へかかる。
右は総寧寺の境内で、左は名代の国府台の断崖。崖の下には利根川の水が渦を巻いて流れている。
鐘ガ淵の近くまでノソノソやってくると、一丁ほど向うで、五人ばかりの人間が淵へ身を乗り出すようにして、忍び声で代るがわる崖の下へなにか言いかけると、崖の下からおうむがえしに、よく透る落着いた女の声がきこえてくる。
なにをしているのだろうと思って、断崖の端へ手をついて女の声のするほうを斜めに見おろした途端、顎十郎は思わず、ほう、と声をあげた。
川霧がたてこめて月影は薄いが、ちょうど月の出で、蒼白い月光が断崖の面へ斜めにさしかけているので、そこだけがはっきりと見える。
蓑虫のようにグルグル巻きにされた一人の女が、六十尺ばかりも切立った断崖へ、一本の綱で吊りさげられてブラブラと揺れている。
さっきから落着いた声でものを言っているのは、一本の綱で宙ぶら
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