明いたしましたが、なんとしても白状いたしませんので、後々のためを思いまして鐘ガ淵へ沈めてしまいました」
「それでは、手蔓がなくなる」
「ご心配には及びません。八重は、間もなく郷士体の者に救いあげられ、恙《つつが》なく江戸へ帰っております」
「ほう」
「八重のほうでは、われわれが、八重はもう死んだと思っているものとかんがえ、今までよりも自由に働くことでございましょうから、八重をさえ見張っておりますれば、かならず御在所が判明いたすことと存じます。……われわれの見こみでは、八重が国府台あたりを徘徊いたすによっても、御在所は、まず、あのへんの見こみ。……北は川口、東は市川、南は千住、この三角の以内と察しております」
「その中に『鹿』という字のついた地名があるか」
「……残念ながらございません。……手前のかんがえでは、これは鹿ではなく平仮名の『か』あるいは『しし』と読ませるつもりと心得ます。……『か』は申すまでもなく鹿の子の『か』……。『しし』は鹿谷《ししがたに》の『しし』。……まず、かようなわけと愚考いたします」
「いかさま、な。……なにはともあれ、一日も早く居所を捜しだし、不愍だが手筈通りにいたせ。そうなくては佞奸の水野を圧えることが出来ぬ。……水野の復職の理由が不明だによって、閣内はいうまでもない、市中でもさまざま取沙汰するそうな。……わしとしては、この上、一日も水野の圧迫を忍びとうない、不快じゃ」
「おこころは充分お察し申しあげております。……かならず……かならず……」
「たのむ」
寛濶なひとは、それで数寄屋の中へはいってしまった。村垣は庭土に三つ指をついて首を垂れたまま、いつまでもじっとしている。
顎十郎は、松の上で、
「……早く行かねえか! これじゃ降りられやしねえ、泣くならどこかへ行って泣け」
と、ボヤいていると、村垣はようやく膝の土を払って立ちあがり、顔を俯向けるようにして並木路のほうへ行ってしまった。
顎十郎は、そろそろと松の木からおりて沼のへりを廻り、竹藪の中へ逃げこむと、またしても大胡坐をかき、
「……あなたまかせの春の風。……もうひとつの漢字がわかって、その上、読み方まで教わりゃあ世話はない。……すると、お沢婆さんの書いた三字の漢字というのは『五』と『大』と『鹿』だ。……鹿は鹿の子の『か』と読ませるつもりだそうだから、すると『五』は五月《さつき》の『さ』。こりゃあ、わけはない。すると『大』はこの筆法で、大臣《おとど》の『お』かな、それとも大人《うし》の『う』かな。……『さおか』。でははなしにならないから、するとやはり大人のほうで『さうか』。……さうか……、さうか……、草加!……ふ、ふ、なるほど!」
涎《よだれ》くり
湯島の古梅庵という料亭の奥座敷。
柱掛に紅梅が一と枝|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けてあって、その下で顎十郎が口の端から涎を垂らして、ぼんやりと眼を見ひらいている。
これと向きあって、紫檀の食卓に腰をかけ、ニヤニヤ笑っているのは、鐘ガ淵のれいのお八重。
高く組んだ膝の上へ肱をついて掌で顎を支え、ひどくひとを馬鹿にした顔つきで、
「ほほほ、ちょいと顎さん……。仙の字。……なにもかも承知のくせに、すッ恍《とぼ》けてあたしを嬲《なぶ》ろうとしたって、そううまくはゆきませんのさ。……お前さんが、風呂へ行っている隙に、祐堂和尚の手紙を読んで、あんたが知っている字も、和尚のおせっかいも、なにもかもみんなわかってしまったの。……『五』という字が手に入ればもうこっちのもの、捨蔵様のいどころはこれでちゃんとわかりましたから、あたしはひと足先にまいりますよ。……始めて江戸へ出て来たひとを、こんな目に逢わせてお気の毒さまみたいなもんだけど、これに懲りて、もう柄にないことはおよしなさい、わかりましたか。……ご縁があったら、またいずれ。……あとで手足の痺れが直ったら、ちゃんと涎を拭いておきなさい。……くどいようだが、あたしはこれから行きますよ、よござんすね。……では、さようなら」
「ち、ち、ち……」
「畜生と言いたいのでしょう、急がずに、あとでゆっくりおっしゃい、ね」
言いたいだけのことを言って赤い舌を出すと、お八重はツイと小座敷から出て行ってしまった。
痺れ薬のせいで手足はきかないが、頭は働く。口惜しくて腹の中が煮えくり返りそうだが、顎の筋まで痺れたとみえて、歯軋りすることさえ出来やしない。
それからひと刻。
ようやく手足がすこしずつ動くようになった。半分這うようにして帳場まで行き、曳綱後押附の三枚駕籠を雇ってもらい、その中へ転がりこむと、レロレロと舌を縺らせながら、
「そ、う、か……そ、う、か……」
「おい、お客さまが、そうかそうか、とおっ
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