顎十郎捕物帳
捨公方
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)不知森《しらずのもり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|切《さい》禁物
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)遇変不※[#「目+毛」、第3水準1−88−78]《ぐうへんふぼう》
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不知森《しらずのもり》
もう秋も深い十月の中旬《なかば》。
年代記ものの黒羽二重《くろはぶたえ》の素袷《すあわせ》に剥げちょろ鞘の両刀を鐺《こじり》さがりに落しこみ、冷飯《ひやめし》草履で街道の土を舞いあげながら、まるで風呂屋へでも行くような暢気な恰好で通りかかった浪人体。船橋街道、八幡の不知森のほど近く。
生得《しょうとく》、いっこう纒まりのつかぬ風来坊。二十八にもなるというのに、なんら、なすこともなく方々の中間部屋でとぐろを巻いて陸尺《ろくしゃく》、馬丁《べっとう》などという輩《てあい》とばかり交際《つきあ》っているので、叔父の庄兵衛がもてあまし、甲府勤番の株を買ってやったが、なにしろ、甲府というところは山ばかり。勤番衆といえば名だけはいかめしいが、徳川もそろそろ末世で、いずれも江戸を喰いつめた旗本の次男三男。端唄や河東節《かとうぶし》は玄人跣足《くろうとはだし》だが、刀の裏表も知らぬようなやくざ侍ばかり。
やくざのほうでは負《ひけ》は取らないが、その連中、気障《きざ》で薄っぺらで鼻持ちがならない。すっかり嫌気がさして甲府を飛びだし、笹子峠を越えて江戸へ帰ろうとする途中、不意に気が変って上総のほうへひン曲り、半年ばかりの間、木更津や富岡の顔役の家でごろごろしていたが、急に江戸が恋しくなり、富岡を発ったのがつい一昨日《おととい》。今度はどうやら無事に江戸まで辿りつけそう。
諸懐手《もろふところで》。袂を風にゆすらせながら、不知森のそばをノソノソと通りかかると、薄暗い森の中から、
「……お武家、お武家……」
たいして深い森ではないが、むかしから、この中へ入ると祟りがあると言いつたえて、村人はもちろん、旅の者も避けるようにして通る。
絶えて人が踏みこまぬものだから、森の中には落葉が堆《うず》高く積み、日暮れ前から梟《ふくろう》がホウホウと鳴く。
仙波阿古十郎《せんばあこじゅうろう》、自分では、もう侍などとはすっぱり縁を切ったつもり。いわんや、古袷に冷飯草履、どうしたってお武家などという柄じゃない。そのまま行きすぎようとすると、
「……そこへおいでのお武家、しばらく、おとどまり下さい、チトお願いが……」
こうなれば、どうでも自分のことだと思うほかはない。呼ばれたところで踏みとどまって、無精ッたらしく、
「あん?」
と、首だけをそっちへ振りむける。……いや、どうも、振るった顔で。
どういう始末で、こんな妙な顔が出来あがったものか。
諸葛孔明の顔は一尺二寸あったというが、これは、ゆめゆめそれに劣るまい。
眼も鼻も口もみな額際《ひたいぎわ》へはねあがって、そこでいっしょくたにごたごたとかたまり、厖大な顎が夕顔棚の夕顔のように、ぶらんとぶらさがっている。唇の下からほぼ四寸がらみはあろう、顔の面積の半分以上が悠々と顎の分になっている。末すぼまりにでもなっているどころか、下へゆくほどいよいよぽってりとしているというのだから、手がつけられない。
この長大な顎で、風を切って横行濶歩するのだから、衆人の眼をそば立たせずには置かない。甲府勤番中は、陰では誰ひとり、阿古十郎などと呼ぶものはなく、『顎』とか『顎十』とか呼んでいた。
もっとも、面とむかってそれを口にする勇気のあるものは一人もいない。同役の一人が阿古十郎の前で、なにげなく自分の顎を掻いたばかりに、抜打ちに斬りかけられ、危《あやう》く命をおとすところだった。
またもう一人は、顎に膏薬を貼ったまま阿古十郎の前へ出たので、襟首をとって曳きずり廻されたうえ、大溝《おおどぶ》に叩きこまれて散々な目に逢った。阿古十郎の前では、顎という言葉はもちろん、およそ顎を連想させるしぐさは一|切《さい》禁物なのである。
そういう異相を振りむけて、森の木立の間を覗きこんで見ると、『八幡の座』と呼ばれている苔のむした石の祠のそばに、払子《ほっす》のような白い長い顎鬚をはやした、もう八十に手がとどこうという、枯木のように痩せた雲水の僧が、半眼を閉じながら寂然《じゃくねん》と落葉の上で座禅を組んでいる。
阿古十郎は、枯葉を踏みながら、森の中へ入って行くと、突っ立ったままで、懐中から手の先だけだして、ぽってりした顎の先をつまみながら、
「お坊さん、いま、手前をお呼びとめになったのは
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