しゃっていられるぜ」
「なにがそうかなんですえ」
「そうか……そうか」
「草加までいらっしゃろうというんで」
「ああ、そ、そだ。……飛ばして……くれ。金は……いくらでも……や、る」
「おう、相棒、酒手はたんまりくださるとよ……早乗りだ」
「おう、合ッ点だ」
一人が綱を曳き、三人の肩代り。後棒へまた二人取りついて、
「アリャアリャ」
一団の黒雲になって飛ばして行く。
北千住から新井と、ひきつぎひきつぎ駈けて行くうちに、後棒につかまっているのが、頓狂な声で、
「……ねえ旦那、妙なことがありますぜ。……あっしらのあとへ、さっきから早駕籠がくっついて来るんです。……あれもやっぱりお仲間ですかい」
顎十郎は、えッと驚いて、
「そ、そんなことはない。……いってえ、その早駕籠は、どのへんからついて来た」
「古梅庵の角でこっちの駕籠があがると、それから、ずっとくっついて来ているんです」
「その駕籠に乗ったやつの顔は見えなかったか」
「ええ、見ましたとも! 高島田に立矢の帯の、てえした別嬪ですぜ」
「畜生ッ、お八重のやつだ。……なるほど、かんがえてみると、村垣が持っている一字をお八重が知っているわけはない。……おれに痺れ薬を嚥ませてその間に早駕籠の用意をし、痺れがとれたらおれが闇雲に飛び出すのを見越して、古梅庵の角で待っていやがったんだ。……こうまで馬鹿にされりゃ世話はねえ」
「……ねえ旦那、もうひとつ妙なことがあるんです。……女の早駕籠のあとを、もうひとつ早駕籠が来るんで……」
「えッ、その駕籠はどこからついて来た」
「それも、やっぱり古梅庵の角からなんで……」
「どんなやつが乗っていた」
「頬のこけた、侍のような、手代のような……」
「ちぇッ、村垣の野郎だ。……おれは草加までお八重をひっ張ってゆき、お八重は草加まで村垣を案内するというわけか。……してみると、一番の馬鹿はこのおれか。畜生ッ、そんなら、おれにもかんがえがある」
大声で駕籠|舁《かき》どもに、
「おい、おい、少々わけがあって、おれは向うの土手のあたりで駕籠から転げだすから、お前たちはここから脇道へ入って、上総のほうまで出まかせに飛ばしてくれ。どうでもあいつらを巻かなくちゃならねえのだ。……駕籠代と祝儀あわせて十両、この座蒲団の上へおくからな、たのんだぞ」
「よござんす、合ッ点だ」
西新井の土手へ差しかかると、顎十郎は、はずみをつけて駕籠から飛びだし、土手の斜面を田圃のほうへゴロゴロと転がり落ちて行った。
捨蔵さまは草加の村外れで、寺小屋をひらいていた。
万年寺を逃げ出したのには、深いわけがあったのではない。話にきく江戸の繁昌を見たかっただけのことだった。二十歳のとき、お君という呉服屋の娘と想いあい、この草加へ駈落ちして来て貧しいながら平和な暮しをつづけていた。
捨蔵さまは、なかなか剃髪する決心がつかなかったが、それから二月ののち、上野の輪王寺へはいった。
それから間もなく水野が失脚し、再び立つことが出来なくなった。
底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」三一書房
1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
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