住み切れねえ。……おい、またしばらく厄介になるぞ」
「あっしらあ、先生に行かれてしまってから、すっかり気落ちして、とんと甲府のほうばかり眺めて焦れわたっておりました。……おい、みんな、先生が帰って来なすった。……早く、来い来い……」
 奥からバタバタと駈けだして来た陸尺に中間。
「いよう、先生、ようこそお帰り」
 と大はしゃぎ。担ぐようにして奥へ持って行く。
 その翌朝、七ツ頃、顎十郎は岩槻染、女衒《ぜげん》立縞の木綿の着物に茶無地の木綿羽織。長い顎を白羽二重の襟巻でしっかりとくるんでブラリと脇阪の部屋を出る。亀の子草履に剥げっちょろの革の煙草入を腰にさげているところなどは、どう見ても田舎の公事師《くじし》。
「どういういきさつなのか知らないが、いずれ曰くは目安箱の中にある。……ところもあろうに評定所から目安箱を盗み出すなどというのは、少々、申訳がないが、国の乱れを防ぐというのでありゃあ、それも止むを得んさ。……まあまあ、やって見ることだ」
 ブツブツ言いながら、お濠ばたへ出、和田倉門を入ると突当りが町奉行御役宅。その右が評定所。老中と三奉行が天下の大事を評定する重い役所で、公事裁判もする。
 寄合場大玄関の左の潜り門のそばに門番が三人立っている。ジロリと顎十郎の服装を見て、
「遠国公事だな」
「へえ、さようでございます」
「公事書はあがっているか」
「へえ、さようでございます」
「寄合公事か金公事か」
「寄合公事でございます」
「そんならば西の腰掛へ行け」
「ありがとうございます」
 玉砂利を敷いた道をしばらく行くと、腰掛場があって床几に大勢の公事師が呼出しを待っている。突当りが公事場へ行く入口で、式台の隅のほうに、壁に寄せて目安箱がおいてある。
 黒鉄《くろがね》の金物を打ちかけた檜の頑丈な箱で、ちょうど五重の重箱ほどの大きさがある。
 顎十郎は床几にいる人たちに丁寧に挨拶しながら式台のほうへ歩いて行くと、式台へ継ぎはぎだらけの木綿の風呂敷を敷いて、悠々と目安箱を包みはじめた。
 まさか天下の目安箱を持ってゆく馬鹿もない。なにをするのだろうと四五人の公事師がぼんやり眺めているうちに、顎十郎は目安箱を包むとそれを右手にさげ、はい、ごめんくらっせえ、と挨拶をして腰掛場を出てゆく。
 よっぽど行ってから、ようやく気がつき、二三人、床几から飛びあがって、
「やッ、泥棒!」
「飛んでもねえことをしやがる。やい、待てッ……」
 砂利を蹴って後先になってバラバラと追いかけて来る。
「糞でも喰え、だれが待つか」
 じぶんも大きな声で、泥棒、泥棒と叫びながら潜り門のほうへ駈けだし、
「お門番、お門番、いまそこへ盗人が走って行きます」
 詰所で将棋を差していた門番が、驚いて駒を握ったまま飛びだして来る。
「やいやい、なにを騒いでいやがるんだ」
 顎十郎は、息せき切って、
「ど、泥棒。……いま、ぬすっとが逃げて行きました」
「馬鹿をいえ、そんなはずはない」
「はずにもなにも……あれあれ、あそこへ……」
 待て待て、そのぬすっと待て、と叫びながら潜り門を飛びだす。
 和田倉門のほうへ行かずに、町奉行の役宅の塀についてトットと坂下門のほうへ駈けながら、うしろを振りかえって見ると、番衆や同心に公事師もまじって、一団になってワアワアいいながら追いかけて来る。……どっちへ逃げてもお濠のうち。
 紅葉山の下を半歳門のほうへ走りだして見たが、このぶんでは半蔵門で捕るにきまっている。
「ままよ、どうなるものか、西の丸の中に逃げこんでしまえ」
 幸いあたりに人がない。
 躑躅《つつじ》を植えた紅葉山の土手に取っついて盲滅法に掻きあがる。
 飛びこんだところが、ちょうど廟所のあるところ。築山をへだてて向うにお文庫の屋根が見える。顎十郎は、楓の古木の根元へドッカリと胡坐《あぐら》をかき、
「ここまで来りゃあ大丈夫。……いま、西の丸へ怪しきやつが入りこみましたから、なにとぞ、ご支配までお通じください。……支配から添奉行、添奉行から吹上奉行と手続きを踏んでいるうちにとっぷりと日が暮れる。……まあ、そう言ったようなわけだ……では、ひとつ箱を壊しにかかるか」
 懐中から五寸ばかりの細目鋸《ほそめのこ》を取りだして、状入口からゴシゴシと挽き切りはじめる。
 刳《く》りあけた穴から手を入れて見ると、五通の訴状が入っている。
 丁寧に封じ目を解いてひとつずつ読んでいたが、五通目の最後の訴状に眼を走らせると、
「うへえ!」
 といって、首をすくめた。

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 女々しいことですが、わたくしは前の本性院様の側仕えの八重と申す女に捨てられた男でございます。
 その怨みを忘れることが出来ませんので、意趣を晴らすため、八重の一派が企ておる謀叛の事実をここに密訴いたします。
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