いるのを、手前がやっとの思いで助けてあげたんで」
女は、あら、と眼を見張って、
「あなたが、あたしをお助けくださいましたの」
「どうも話がくどくていけねえ。助けたらこそ、こうしているんです。さもなけりゃあ、今ごろは行徳の沖あたりまでつん流れて行って、鰯にお尻を突つかれているころだ」
「まあ、面白い方。……普通なら、ひとを助けておいて、なかなかそんな冗談はいえないものですわ。そんなところに突っ立っていないで、まあ、焚火にでもおあたりなさいませ」
顎十郎は、毒気をぬかれて、うすぼんやりと焚火のそばへ跼みこむと、女は裾を直し、改めて艶《なま》めかしく横坐りして焚火に手を翳しながら、
「ほんとうのことを言いましょうか。……じつはね、あたし、もうすこし先から気がついていたんですけれど、あなたがどんなことをするのかと思って、ようすを窺っていましたの」
「じゃ、あんたは、手前があんたの足や胸を温めてやったのを知っていたんで」
「ええ、知っていましたわ。どうもご親切さま」
「こいつは驚いた。……江戸の人はひとが悪いというが、へえ、ほんとうだね」
「でも、こんな磧に男一人女一人。……なにをされるかわからないとしたら、やはり怖いでしょう」
「ぷッ、冗談いっちゃいけねえ。……六十尺もある崖に宙吊りになって、あんな後生楽《ごしょうらく》を並べていたお前さんでも、怖いものがありますのか」
「まあ、いやだ。……あなた、あれを聴いていたの。そんなら、今更、猫をかぶっても手おくれね」
「いい加減にからかっておきなさい、手前は先を急ぐから、あんたなんかに、かまっちゃいられねい」
わざと身振りをして立ちかかると、女は手で引きとめ、
「あたしをこんなところへ一人おいて行って、狼にでも喰われたらどうします。……それこそ仏をつくって魂を入れずというもんだわ。……それに、少々折入ってお願いがありますの」
顎十郎は、頭を掻いて、
「やあ、どうもこいつは弱った。……お願いというのはいったいどんなことけえ。……気が急《せ》くからね、手ッ取り早くやってくだせい」
「どうやらあんたは甲府訛。……あちらのほうからいらした方なの」
「わしゃあ甲府の郷士の伜でね、江戸へ出るのはこんどが始めてだ。……それはそうと、いってえ、どんな科《とが》であんなえれえ目にあっていなすったけえ」
「あたしは本性院様というお局の側仕えで八重というものですが、あたしがさるお大老の悪事を知っているばかりに、いろいろなやつが寄ってたかって、あたしを殺してしまおうとしますの。……あなたは見たから知っているでしょう、こんな脆弱《かよわ》い女一人を、大勢の男であんなひどい目に逢わせるんです。……ねえ、あなた、あたしを気の毒だと思わない?」
「それは、まあ、気の毒だと思う」
「あたしに力を貸して、助けてくれる気はなくって」
「事柄によっちゃ力を貸してもいいだが、それは、いったいどんなこと」
お八重は、顎十郎の膝に手をかけて、
「ほんのちょっとしたことなの。……江戸、竜《たつ》ノ口の評定所《ひょうじょうしょ》というところの腰掛場に、目安箱という箱がさがっていますから、それを持って来ていただきたいの」
目安箱というのは、歴代の将軍が民情を知る具にした訴状箱で、老中の褒貶《ほうへん》、町奉行、目付、遠国の奉行の非義失政などの忌憚のない密告書が出てくる。これを本丸へ差しだすときは、老中の用部屋まで六人の目付が附添い、老中から用部屋坊主、時計の間坊主、側用取次というふうに順々に手渡しされ、将軍は人払いの上、首に掛けている守袋から目安箱の鍵を取りだして、手ずから箱をひらくという厳重なもの。濫《みだり》にこの箱をあけたりすると、その罪、死にあたる。
それを、ちょいと持って来いという。
顎十郎、あまり物怖《ものおじ》しないほうだが、これには、いくらかおどろいた。
世の中には、えらい女もいるものだと舌を巻きながら、トホンとお八重の顔を眺め、
「それを持って来りゃあいいんだね。……そんなことなら、わけはなさそうだ。……よっぽど重いかね」
「まあ、いやだ。箱なんかどうだっていいのよ。……箱の中にある手紙だけがほしいの」
「よし、わかった。……それで、その手紙をどこへ持って行くかね」
「あさっての六ツに、湯島天神の鐘撞堂の下まで持って行って下さい」
「心得申した」
「ほんとうにご親切ね」
「いや、それほどでもねえが……」
目安箱
二年ぶりで帰る江戸。
懐手のままで、ぬうと脇阪の中間部屋へ入って行く。
上り框《がまち》で足を拭いていたのが、フト顔をあげて顎十郎を見ると、うわあ、と躍りあがった。
「先生……いつお帰りになりました」
「いま帰って来たところだ。……甲府は風が荒いでな、おれのような優男《やさおとこ》は
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