りなのなら、早く綱をお切りなさいな。こんなところで宙ぶらりんになっているのはかったるくてしょうがないから。……ねえ、村垣さんてば……」
 上のほうでは、六人が崖っぷちに跼みこんで、なにか相談をしあっているふうだったが、間もなく一人だけが立上ると、ズイと崖のギリギリのところまで進み出て、
「おい、お八重、お前、どうでも死にたいか」
 崖の下では、また、ほ、ほ、と笑って、
「ええ、死にたいのよ。……どうぞ、殺してちょうだい。……あなたたちだけが忠義|面《づら》をすることはない……そちらが、将軍さまなら、こちらは本性院《ほんじょういん》様よ。命を捨ててかかっている腰元が五十や百といるんです。……殺したかったら、お殺しなさい。……あたしが死ねば、すぐお後が引継ぐ。……それでいけなければ、またお代り。……いくらだっているんだから、いっそ、気の毒みたいなもんだわ」
「それだけ聞いておけば結構だ。……お前がこのへんをうろつくからは、これで、だいたい方角もついた。……では気の毒だが綱を切る」
「くどいわねえ。……方角がついたなんて偉そうなことを言うけど、あなた方にあの方のいどころなんかわかってたまるものですか。せいぜいやってごらんなさいまし、お手並拝見いたし……」
 言葉尻が、あッという叫び声に変ったと思うと、女の身体《からだ》は長い綱の尾を曳きながら、石のように落ちてゆく。
 顎十郎は、うへえ、と顎をひいて、
「お庭番というだけあって、なかなか思い切ったことをする。……ひどく切っぱなれのいいこった。……それはそうと、いろいろ聞くところ、どうやら、だいぶ気障なセリフがまじっていたようだ。……祐堂和尚の言い草じゃないが、なるほど仏縁は争われねえ、こんなに早くご利益があろうとは思わなかった。……ひとつ、川下であの女を引きあげて、うまく泥を吐かしてやる」
 古袷の裾をジンジンばしょりにすると、空脛をむき出して、崖っぷちに沿ってスタコラと川下のほうへ駈けだす。
 このへんは足利時代の太田の城のあったあとで、そのころの殿守《でんしゅ》台や古墳がところどころに残っている。古い城址の間を走りぬけて行くと、断崖に岩をそのまま刻んだ百五十段の石段が水際までつづいていて、その下に羅漢の井戸という古井戸がある。
 飛ぶように急な石段を駈けおり、井戸のそばの岩のうえに跼んで、薄月の光をたよりに川上の水面を睨んでいると、先程の女がはげしい川波に揉まれながら、浮きつ沈みつ流れてくる。

   女の頼み

 水際に倒れていたひと抱えほどある欅の朽木を流れの中へ押し落すと、身軽にヒョイとその上に飛び乗り、押し流されてくる女の襟くびを掴んで川岸へ引きよせる。波よけの杭に凭《もた》せておき、石子詰《いしこづめ》の蛇籠《じゃかご》に腰をかけてゆっくりと一服やり、
「これで一段落。……あとは水を吐かせるだけ」
 暢気なことを言いながら、薄月に顔むけて眼を閉じている女の顔をつくづくと眺める。
 二十歳といっても、まだ二十一にはならない。目鼻立ちのきっぱりした瓜実顔。縮緬の着物に紫繻子の帯を立矢の字に締め、島田に白い丈長《たけなが》をかけ、裾をきりりと短く端折って白の脚絆に草鞋を穿いている。
「これは大したもんだ。甲府じゃこんな鼻筋の通った女に、お目にかかったことがなかった。……齢はまだ二十歳になったぐらいのところだが、崖に吊りさげられながらあんな悪態をつくなんてえのは、この齢の小娘にはちょっと出来ない芸当だ。……波切りの観音さまのようなおっとりした顔をしているくせに、よくまあ、あんな憎まれ口がきけたものだ、これだから女はおっかねえ。……しかし、いつまでもこうしておくわけにはゆくまい、どれ、水を吐かせてやるか」
 吸殻を叩いて煙草入れを袂へ落すと、やっこらさと起ちあがり、まるでごんどう鯨でも扱うように襟を掴んでズルズルと磧《かわら》へ引きあげる。衿をおしあけて胸のほうへ手を差し入れ、
「おう、まだ温《ぬく》みがある。このぶんなら大丈夫。……落ちる途中で気を失ったとみえて、いいあんばいにあまり水も飲んでいない」
 がんじがらめになっている繩を手早く解いて俯向けにして水を吐かせ、磧の枯枝や葭《よし》を集めて焚火を焚き、いろいろやっているうちに、どうやら気がついたらしく微かに手足を動かし始めた。
「へえ、お生き返りあそばしたか」
 女の肩に手をかけて、手荒く揺すぶりながら、
「姐さん姐さん、気がつきなすったか」
 女は、長い溜息をひとつ吐くと、ぼんやりと眼をあいて怪訝《けげん》そうにあたりを見まわし、
「……いま、なにか仰有《おっしゃ》ったのはあなたでしたか。……あたしはいったい、どうしたのでしょう」
「どうしたもこうしたも、ありゃしない、お前さんが鐘ガ淵へ落しこまれて土左衛門になりかかって
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