b玉廻し役《クルウピエ》の懸け声もきかれようという。右行左行するものは遊子粋客にあらざれば、偽装いかめしい|氷海の見物客《メール・ド・グラス》ばかり、かいがいしい登山者は町はずれででもなければ見当らない。
そのシャモニイの町の、停車場に近い英国教会の墓地から、飄々と立ち現われて来たのはタヌキ嬢ならびに狐のコン吉の二人連れ。なにやら浮かぬ顔をしてしきりに爪を噛んでいたコン吉が、
「いや、なかなかすごいものだね、タヌ君。君、いまの碑銘を読んだかね。(ロバートソンの足の指をここに葬る。残余はタッコンナの氷の下にあり)なんてのは、どうもさんざんな最期だね。残った部分がこう少なくては保険会社でも弁済の法がつくまい。桑原、桑原」というとタヌは眉をひそめて、
「でも爪の伸びた足の指なんて不潔ね。あたしなら、そうね、うす桃色の耳かなんか残してやるつもりよ。……それはそうと、あっちにずいぶん人だかりがしてるけど、……」
コン吉がその方を見ると、町役所の土壇《テラッス》に持ち出された大眺望鏡を十重|二十《はた》重に取り囲んだ群集が、いずれも殺気だった面持で虚空をみつめているので、日ごろ物見高いコン吉はたちまち活況を呈してそっちへ駆け寄り、そばの肥満紳士に、
「戦争ですか。飛行機ですか」と、あわただしくたずねると、紳士は唇に指を立て、
「しっ! |緑の光峰《エイギュイユ・ヴェルト》の氷壁で三人の男が落ちかかって綱一本でぶらさがってるのです」
「うわア! これは大変」とコン吉が、人垣を押し分けて円陣の中心をのぞくと、|C・A・F《フランス・アルプスくらぶ》の徽章をつけた男が、眺望鏡に目を押しあてて、一心に空をみつめながら、金切り声で、不幸な一行の動静を披露《アノンセ》している。
「あ、落ちます、落ちます。……先登《テエト》の山案内《ギイド》は必死に岩鼻にしがみついていますが、もう三人を支える力がない……。最後《クウ》の奴はしきりに足場《トラアス》を刻もうとしていますが、斧《アックス》は壁へ届きません。……揺れ出した、揺れ出した、……風が出て来たと見えて、時計の振り子のように動いています。……あ、あ、畜生、なにをするんだ。……先登《テエト》は片手を離しました。……あ、また抱きつきました。……|偉いぞ《ブラヴォ》、|偉いぞ《ブラヴォ》!……そこを離すな、もう少しだ。……あああッ!……いけな
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