「、いけない。……みなさんもう諦めて下さい。……頭の上の大きな雪蛇腹《コルニッシュ》……そいつがいま壊れて……雪崩《アヴァランシュ》だア!……ちょうど三人の頭の上へ、……あと、十|米《メートル》、……あと五米、あと、一米! あっ!……もう見えなくなってしまいました。……三人の魂はアルプスの雪に浄められて天に昇りました。……みなさん、どうぞ黙祷《もくとう》を願います」
 群集の中から、うおッ! という嗚咽《おえつ》の声が起こった。男は一斉に帽子を脱いで黙祷し、女たちは抱き合ってすすり泣いた。市役所の屋根の上のサイレンが鳴り出した。
 コン吉とタヌはねんごろに念仏を唱え、沸然たる非常時の広場から離れ、川岸《かし》の椅子《パン》に坐って、しばらくは言葉もなく差し控えていると、その前を、氷斧《アックス》をかかえた三人連れの登山者が、談笑しながら登山鉄道の乗り場の方へ歩いて行った。コン吉はその後ろ姿を見送りながら、
「さすが本場だけあってなかなか相当なもんだね。犠牲者の墓地を参詣《さんけい》して一歩外へ出るといきなり、山から落ちる奴がある。そうかと思うと落ちたとたんに代り合って登って行くのがある。今の連中も、いずれ落ちて来るのだろうが、こう頻繁では応接の暇《いとま》がないね。これでは毎日告別式だ」
 タヌもどうやら不承服な面持で腕組みをしていたが、
「そうね、こう死亡率が多いとゆゆしい問題だわね。仏蘭西《フランス》のアルプス倶楽部《くらぶ》は、登山者に落下傘《パラシュウト》を貸す、なんて智慧を持ち合わしていないのかしら」
「日ごろ傍若無人のタヌ君でさえ、そういう意見をいだかれるようでは僕がこうして震えあがっているのも大いに無理のないことだ。どうだろう。山登りなんぞはやめにし、アッタシイの湖畔へ引きうつって、美味《おいし》い川魚でも喰おうじゃないか」
「でも、あたしは魚は嫌いよ」と、語り合っている二人の前へ、またもや立ち現われたのは、よれよれの白麻の服を着た長大|赭面《あからがお》の壮漢。黄色い厚紙を二人の鼻の先へ突きつけ、のぼせあがってどもりながら、
「こ、こ、こ、……これを」といった。
 コン吉がひったくってその紙を見ると。

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南針峯《エイギュイユ・デュ・ミデイ》………………………三〇〇|法《フラン》

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