ノンシャラン道中記
アルプスの潜水夫 ――モンブラン登山の巻
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鉱泉《レ・バン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)弟|御《ご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]
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 一、鼻には鼻、耳には耳――現品取引。エークス鉱泉《レ・バン》駅に約十分滞留したのち、汽車はブウルジェの湖畔の、水陸間一髪という際《きわ》どいところを走っている。
 車窓に蘆《あし》の葉がなびき、底石の青苔や、御遊泳中の魚族《うろくづ》の鱗《うろこ》のいろも手にとるように見える。対岸、オオト・コムブの鬱蒼《うっそう》たる樅《もみ》の林は、そのまま水に姿を映し、湖上の小舟《サコレーヴ》は、いまやその林中に漕ぎいるのである。
 汽車は水に浮び、舟は山に登る、この意外な環境に恐悦してしきりに喝采しているのは、登山用具で身をかためた男女二人の若い東洋人。幾百千とも知れぬ小魚が、くるくると光の渦を巻きながら魚紋を描いているのを指《ゆびさ》して、鮒《ふな》じゃ、鯉《こい》じゃ、といい争っていると、
「はい、今日は」といいながら寄って来たのは、鉄縁《てつぶち》眼鏡をかけた半白の老人。村役場の傭書記《やといしょき》、小学校の理科の先生、――そういった実体《じってい》な人物。
「ご清興をおさまたげいたしまして申し訳もありませンが、ぜひともお耳に入れたい事がござります、と申しまするのは、……」と、声をひそめ、「実は、あなたがた、お二人さまの生命に関する重大な報告を持参いたしたからでござります」
 聞き捨てならぬ、と二人は思わずその方へ乗り出すと、
「ささ、お見受けいたしますれば、これはアルプス登攀《とはん》のご途中と拝察されますが……」
 すると、厚手の毛織上衣《シャンダイユ》に革の脚絆をしたうら若き東洋的令嬢《にっぽんのおじょうさん》、喉もとから腰のあたりまで巻きつけた登山綱《ザイル》をポンとたたいて、
「ええ、ご覧の通りよ」と、涼しげにいい放った。鉄縁眼鏡は天を仰いで嘆息し、
「ああ、天なるかな、命なるかな、……まことに申しにくいことながら、これから手前が申しあげ
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