まする条々、よウく心をしずめてお聞きとり下さい。……そもそもアルプスの山神と申しまするは、その昔、天の火を盗んだ百罰として、コウカサスはエルブルュスの巓《いただき》につながれましたるプロメシウスの弟|御《ご》パラシュウスと申す猛々しいお方でござります。されば山の犠牲《にえ》としてご要求になる人命と申しまするものは、一年にだいたい二百六十個、片足だけお取りあげになったものは千八本、前歯が六百枚、耳が七十三対という有様でございます。とりわけお好みになりまするは、各国、各人種のお初穂《はつほ》でございまして国別にいたしましてその国の最初の登山者の人命は、必ずお取りあげになるというのが古来アルプスの山の掟《おきて》でございます。例を申しますなれば、エドワアド・ウイムバアは最初の英吉利《イギリス》人、ハンス・ジムメルマンは最初の墺太利《オースタリー》人、アブ・アッサンは最初の土耳古《トルコ》人でございました。お見受け申しますれば、フィリッピンとかマニラとかあのへんのお方と存じますが、アルプスの記録にはフィリッピン人が登山したという事実はまだ記載されていないのでござります。さすれば、お二人さまはそのオ、フィリッピン人の初品《はしり》になるわけでござりますが、ああ、して見れば、お二人さまの生命と申しますものはさながら風前の瓦斯《がす》灯、酢のなかに落ちた蠅《はえ》同然。ナントモ御愁傷《ごしゅうしょう》さまな次第なンでござります。……と、申しましても、決して御登山の御愉快にケチをつけようなどという狭い了見から申しあげているのではございませン。
[#ここから2字下げ]
男子越ゆべしアルプスの嶮、
踏んで登れやモン・ブラン……
[#ここで字下げ終わり]
……てなわけで、むしろ、手前がご嚮導《きょうどう》申しあげて登りたいくらいなンでござります。ナニ、多寡《たか》の知れたるモン・ブラン、なにほどのことがありましょう。決してお止《と》めいたすわけではございませン。それにつきましては、本社をリヨン市に置きますところのルナアル生命保険会社は、両三年以前から『アルプス登山傷害保険』と申しまする部門を開設いたしまして、はなはだ優秀なる成績をあげておりますのでござります。保険契約の仕組を簡単に申し上げますれば、契約と同時に金三百|法《フラン》をちょうだいいたしまして、万一、ご身辺に傷害の事故のござい
前へ 次へ
全16ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング