にとられて眺めていたが、やがて、タヌは何か思い当ったという風に、
「これまたマルセーユ人に一杯やられたのよ。武芸だなんていっておいて曲馬の牛のような芸を仕込んだのに違いないわ。きっと今ごろはまた笑い話にしてそのへんをふれ廻っているんだ。……よし、もう勘弁《かんべん》がならないぞオ。あたしこれから行ってひと談判してくるよ。さ、ナポレオン、もう一度学校へゆくのよ」と、※[#「此/目」、78−上−4]《まなじり》を決して勢《きお》い立つ。コン吉は立ちふさがって、
「待った、待ったタヌ君、君の立腹はもっともだが、マルセーユ人にかかってはいかな君でも手に負えまい。残念だろう、無念だろうが、今までのことは不運と諦めて、もう日も迫ったことでもあるから大急行でわれわれだけでナポレオンを荒牛《トオロオ》に仕上げよう。あの『ヘルキュレス』さえやっつければ、われわれの恥辱もそれで雪《そそ》がれようというものだから」
 ポピノもタヌを押し止めながら、
「令嬢《マムズル》、喧嘩ならどうかわたしにまかしてもらいてえもんでがす。口先の滑った転んだではかなわねえが、いざといったらこの匕首《プニャアレ》がものをいうでがす。それよりも今は大将のいう通り、ナポレオンをどこかの囲い場へ引っ張って行って昼夜兼行でみっしり叩《たた》きあげなくてはなりません」
「それがいい。それはそうとともかく、挑戦状《はたしじょう》をたたきつけなくては話にならない。僕は昨夕《ゆうべ》一晩かかって、新聞広告の原稿を作っておいたからちょっと見てください。よかったらすぐ、夕刊『馬耳塞《マルセーユ》人』へ廻すつもりだから。それから新聞記者を招待して、大々的に提灯《ちょうちん》を持ってもらってぜひとも『ヘルキュレス』と顔が合うようにしなくてはならん。さ、これが新聞広告の原稿」
[#ここから3字下げ、罫囲み]
マルセーユの『ヘルキュレス』よ!
大きなことをいうな!
コルシカ島に『ナポレオン』あり※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 汝のごとき張子《はりこ》の牛は、ナポレオンの鼻息で吹き飛ぶであろう!
 口惜《くや》しかったら、いつでもお相手つかまつる。
ざまあ見ろ!
   七月二日      ナポレオン後援会
[#ここで字下げ終わり]
 七、戦闘的|食餌《しょくじ》とは青唐辛子に蝮酒《まむしざけ》。サント・ボオムの囲い場はレエグルという小山の麓《ふもと》にある。昔は音に響いた荒牛《トオロオ》を無数に送り出した囲い場であったそうだが今は堆肥場になっているので、人馬ともにあまり寄りつかない。
「さ、ここなら大丈夫。思う存分やれるというものだわ」と、勇み立ちながら、タヌが、ナポレオンの方を見ると、ナポレオンはぐったりと柵にもたれ、肋骨《ろっこつ》の浮き出した横腹に波打たせしきりに咳込んでいるので、
「見れば見るほどお気の毒さま見たいな牛だわね。これで一体あの『ヘルキュレス』に勝てるのかしら!……こんな事じゃ仕様がない。さ、キミとポピノはかわるがわる牛になってナポレオンに突つかせるのよ。あたしはこれから戦闘力を養う食料の製造にかかることにするから。いいわね、さ、始めたり、始めたり」
 厳令|黙《もだ》し難く、コン吉とポピノは赤い絨氈《じゅうたん》を頭からひっかぶって、越後から来たお獅子のように、ステテ、ステテとしきりにナポレオンの前を躍《おど》り廻るが、ナポレオンは一向に驚く様子もなく、堆肥の間から生え出した埃《ごみ》まみれの韮《にら》の葉か何かを、ものぐさそうに唇でせせり[#「せせり」に傍点]ながら、流し目一つ使おうとしないので、とうとう業《ごう》を煮やしたコン吉が、赤い壇通をかなぐり捨て、
「この発育不良め! ここな痩《や》せ牛よく聴け! 俺はな、貴様の知らないような遠い東のはずれから、はるばるこのフランスへコントラ・バスの修業にやって来たのだぞ。その身が、あろう事かあるまい事か、人里離れた山ン中で、赤い絨氈《じゅうたん》をひっしょってスットコ踊りをしているのはなんのためだ。それもこれも、貴様にヘルキュレスをやっつけさせて、一つには親の敵《かたき》、二つにはコルシカの恥をそそがしてやりたいためなんだぞ。畜生とはいいながらあんまり理解がなさすぎる。貴様は馬鹿か気狂いか、それとも親代々の色盲か。それでは、これならどうだ」
 と、そばにあった緑の風呂敷を頭からかぶって、ナポレオンの鼻の先へぬウと出ると、とたんに躍りあがったナポレオンはコン吉の襟首へ角を引っかけはるか向うの空堀《からぼり》の中へ投げ出した。
「ははア、そういうわけであったか」と、コン吉はタヌに助け起こされて、痛む腰を撫でながら、ようやくの思いで堀から這いあがると、ポピノは、
「そういえば思い当ることがあるでがす。郵便配達の青服が部落を通ったら、一日一杯山中を追い廻したことががしたが、……へえ、それではさっそく青い操布《ムレエータ》であしらってせいぜい突撃術とやらの修業をさせることにいたしやしょう。……それにつけても、お二人さんのお話では、ヘルキュレスの奴め、前足に腫《は》れ物ができているということでがんしたが、なにしろ日もないことだし、それ例の読心術の応用で、藁牛《わらうし》の前足に的を付け、そこばかり一心に突かしたら、阿呆《あほう》も一字で、きっとうまくゆくに違えございません」
 これは名案だというので、さっそく藁を束ねて牛を作り、しきりにあとから駆り立てるところ、血の廻りの悪いナポレオンも、ようやく事の次第を了解したと見え、むやみに駆け寄っては突きかけるが、どういう故障かなかなか思う的に行きあわない。
 しかし、コントロールの悪いのは未熟のせい、いずれおいおい上達することであろう。
 おいおい練習も日数を重ね、かたがたタヌは、青唐辛子、山の芋《いも》、珈琲《コーヒー》、蝮酒《まむしざけ》、六|神丸《しんがん》と、戦闘的|食餌《しょくじ》を供給するものだから、ナポレオンはたちまちのぼせあがって両眼血走り、全身の血管は脈々と浮きあがり、その鼻息はもっぱら壊れたオルガンのごとく、首をもたげて濶歩するのを見れば、伝え聞くヘルキュレスと争うクレエト島の荒牛《トオロオ》も思い合わされ、見る目にもものすごいばかりの有様であった。
 八、筒に声あって向うに声なきは多分|空《から》鉄砲。さて、七月十四日は革命記念祭。プロヴァンスにおける盛大なる牛祭《フェラード》の当日となれば、マルセーユからほど遠からぬアルルの大|円戯場《アレエヌ》その三十四階の観覧席はおろか、その上のコリント式のアーチのてっぺんまで鈴生《すずな》りになった観衆はおよそ一万七千人。七月の焼けつくような南仏の太陽の直射をものともせず、脂汗を流し、足踏み鳴らして開演今や遅しと控えたり。
 定刻となれば、砂場の穹門《アルク》から陽気な軍楽隊《ファンファル》を先に立て、しゅくしゅくと繰り出して来たのが、金糸銀糸で刺繍《ししゅう》した上衣に鍔広帽子《つばびろぼうし》をかぶった仕止師《マタドール》、続いて銛打師《バンデリエロ》、やせ馬にまたがった槍騎士《ピカドール》。二列に分れて会長《プレジダン》席の前に進み闘牛帽を手にして会長に挨拶する。たちまち桟敷《さじき》の上からもアーチの上からも拍手と口笛が湧き起こり、おのおの贔負《ひいき》とする[#「贔負《ひいき》とする」はママ]仕止師《マタドール》の名を呼びかけるその声々、円戯場《アレエヌ》の壁もために崩れ落つるかと思わるるばかり。
 総隊は、さて列を解き散々《ちりぢり》となって所定の位置に着くと、第一の牛が放される。牛は暗闇から急に眩《めくら》むような明るい砂地に引き出されてはなはだ当惑の体《てい》。そのままのそのそと、もと来た方へ引き返そうとすると、赤いマントを持った組下《くみした》の奴《やっこ》が前や後ろへ廻って砂地のまん中へ、まん中へと誘い寄せる。五月蠅《うるさ》いとばかりに、首を沈めてモウ! と吼《ほ》えると、かねて逃げ腰の組下はあわてて遮塀《パレエ》の後ろへさか落しに飛び込んだ。そこで槍騎士《ピカドール》が飛び出したが、これもきわどいところで塀のうしろへ退却する。お次は|銛打ち《バンデリエロ》。これがどうやら持っただけの銛《もり》を打ち終えると、いよいよ最後の仕止め段。仕止師《マタドール》は右手に細身《ほそみ》の剣《つるぎ》、左手に赤布《ムレエータ》を拡げ、牛の前に突っ立ち、やっ! とばかしに襟筋に剣を突っ立てたがなかなか「突っ通し」というわけにはゆかない。牛がいやいやをすると剣ははるか向うへけし[#「けし」に傍点]飛んでしまった。すったもんだのすえ、大汗で最切の牛は片づけた。第二の牛、第三の牛と虐殺し、さて、いよいよ牛角力《コンバ》の番になった。観客席は今までの凄惨《せいさん》陰鬱な気分から開放されてにわかに陽気になる。闘牛《コリダ》と比べて、これは確かに呑気《のんき》しごくな、きわめて力の入れがいのある――つまり、牛を代表に立てた対市競技だからである。
 第一の取組みは片やカマルグ片やタラスコン。
[#天から3字下げ]山猫――爆撃機だ。
 まず最切に『山猫』が恐ろしい勢いで穹門《アルク》から駆け出して来た。そのあとから『爆撃機』が追い掛ける。日ごろ、よほど仲の悪い同士であったとみえて、いきなり穹門《アルク》の前で四つに組もうとしたが、残った! 残った! そこでは、あまり見物席からほど遠い。それで介添役《かいぞえやく》が赤布《ムレエータ》を振って砂場の中央まで引き寄せる。二匹の牛はそこで首を下げものすごく吼《ほ》えながら、互いの足もとを嗅ぐような様子をしていたが、やがて『山猫』は『爆撃機』の角《つの》の間に角を差し入れ、右にひねり左にひねりしてじりじりと押し始めた。『爆撃機』はおいおい後退して柵のそばまで押しつけられ、そこで、少し尿《いばり》をし、間もなくその尿の上へどたりとひっくり返された。
 次は、アルル対アヴィニョンの取組み。
[#天から3字下げ]活火山――屠牛所長。
 これはいたってあっけなくかたづいた。『活火山』は、『屠牛所長』に胸の下からすくわれ、よく晴れた空から牛が一匹降って来たように、どたりと砂場に落ちた。それでおしまい。
 そこでいよいよマルセーユの『ヘルキュレス』対、片《かた》やコルシカの『ナポレオン』の顔合せだ。なにしろ思いも掛けぬ不遜《ふそん》な挑戦にマルセーユ人はすっかりカンカンになっている。コルシカに牛の喰物なんぞあるものか。そんな栄養不良の牛にマルセーユのヘルキュレスが負けてたまるものかというので、ナポレオンが砂地へ出るとたちまち、ドッとばかりに笑い声をあびせかけた。なるほど笑いたくもなるというのは、ナポレオンは広々とした明るい砂地へ出ると心持がよくなったとみえて、そこんとこへ長々と寝そべったからだ。桟敷にはたちまち勝手放題な罵声やら嘲笑が氾濫して蜂の巣を突き壊したような大騒ぎになった。
 少し遅れて、大歓呼大拍手のうちに、悠然《ゆうぜん》と『ヘルキュレス』が現われて来た。いかにも大きな牛である。機関車ぐらいたしかにある。全身磨きあげられた象牙のように白く輝きわたり、角は頭一杯に拡がってまるで羚鹿《となかい》の化物のように見える。これが砂地のまん中に立ち止まると、会長席の前で献辞《ブリンデア》を述べる仕止師《マタドール》のように一声高く吼《ほ》え立てたが、その声の素晴らしさというものはもっぱら大工場のサイレンかと思われるばかり。
 遮塀《パレエ》にしがみついていたコン吉はもう気が気ではない。
「さあ、タヌ君、えらいことになった。これではとても角力《すもう》にはなるまい。なにしろ、灯台と破屋《あばらや》ほども違う」といって、何を思ったか、けたたましい東洋語をもって、
「ナポレオン! しっかりやれエ。ここに俺がいるぞオ!」と、わめき立てる。タヌもポピノも共に声をそろえて、
「ナポレオン! ふれえ! ナポレオン! ふれえ!」と掛け声をかけると、その声に驚いたものか、ナポレオンは、『ヘルキュレス』の方へお
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