ノンシャラン道中記
乱視の奈翁 ――アルル牛角力の巻――
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)馬耳塞《マルセーユ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二本|檣《マスト》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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 一、ココナットから象が出る馬耳塞《マルセーユ》の朝景色。マルセーユの旧港《ヴィユ・ポール》。――この四角な、鱒《ます》の孵化場《ふかじょう》のようなもののなかには、あらゆる船舶の見本と、あらゆる国籍が詰め込まれている。二本|檣《マスト》のゴエレット船、地中海の三角帆船《タルタアヌ》、マルタ島のトロール船、バクウの石油船。そうかと思うと古風な三檣砲艦《モニトール》なんてのもいる。だから、独逸《ドイツ》の潜水艦だってそのへんの水の中にくぐっていないわけのものではない。国籍の方はあげて数えるのも愚かである。サルヴァドル国コスタ・リカ共和国、……諸君は聖《サン》シェージュ王国というのを聞いたことがありますか。ところが、白と黄の奇妙な旗をかかげたその国の船が、ちゃんと波止場のそばに停泊しているのだ。ところが、その波止場には、税関吏、運送屋、宿引き、烏貝《ムウル》売り、憲兵、人足、小豆《あずき》拾い、火夫、人さらい、トーマス・クックの通弁、……そういった輩《やから》が、材木、小麦、椰子《やし》の実、古錨、オーストラリヤの緬羊、瀝青《グウドロン》、鯨油の大樽と、雑多に積みあげられた商品や古物の間を、裾から火のついたように走り廻っている。可動橋の歯車の音、船の汽笛、怒声に罵声、機重機の呻《うめ》き声、蒸気の噴出する音、それに護母寺《ノオトルダム・ド・ラ・ギャルド》の鐘の音《ね》まで入り交じり、溶け合って、轟然《ごうぜん》混然たる港の|朝の音楽《オウバアド》を奏している。
 キャヌビエールの船着場から、烏街《リュウ・ド・コルボオ》の方へ入った一軒の乾物屋の店先に、楕円形《たまごなり》の黒いすべすべしたものが山のように積まれてあった。これはちょうど、いま南洋から到着したばかりのココアの実なんだ。
 するとここへ、牛を連れた三人の男女が通り合わした。一人は粗毛《あらげ》の帽子をかぶり、赤、黄で刺繍《ぬいとり》をした上衣を着、珈琲《キャフェ》色の薄い唇の上に見事な口髯をたくわえた、――つまり、疑いもなくコルシカの山地の人間だということは、その腰にぶっそうな匕首《プニャアレ》を帯びているのでもわかる。
 他の二人は東洋人と見受けられるが、チュニスとかモールとかそういう類ではない。もう少し遠方の人種であるというのは、このへんでは、そうざらに見掛けない顔立ちだからである。男の方は一見、十五六歳だが、地味な襟飾りなどをしているところを見ると二十五六歳にも見える。またしかつめらしく眉をひそめたりすると三十五六歳ぐらいに、時には五十歳ぐらいにも見えるのである。女子の方は十七八歳で、これは人種などというものから少し超越しているというのは、しゃくれた顎と低い鼻を持ち、波止場に落ちた石炭のような漆黒な眼を持っていて、これらの印象が、穴熊だとか狸だとかというものを連想させるからだ。この恐ろしく立派な外出着を着た令嬢が、まるで乾鱈《ほしだら》のようにやせた牛を一匹ひいて、ちょうど出勤時の取引所の雑踏のなかをそそと漫歩しながらやって来た。――犬ではない牛なんだ。
 そこで件《くだん》の乾物屋の店先で。
「これは、ま、卵みたいす。……一体なんの卵だろ」と、よろず、もの珍らしいコルシカ人がまず、こう声をかける。
 すると、その声を聞きつけて店のなかから飛んで出て来たのが、名代のマルセーユ人。
「旦那《ムッシュウ》、これは象の卵ですテ」
「あらま、これが象の卵ですの」
「さいス。これをネ、五日も抱いてるてえと、ちいちゃな象が生れて来るんですヨ。ちいさな鼻をヒョコ、ヒョコと動かしてサ。かあいいじゃありませんか。こいつを一つ十|法《フラン》で買ってさ、うまく育てりゃ、アンタ、何千法に売れようてんだ。ものはためし[#「ためし」に傍点]だ、一つお買いなさいヨ。コルシカに象がいるなんてのも乙《おつ》リキシャッポでサ」
「ま、面白《おもしろ》いこと」
 そこで、コルシカ人は考えた。十|法《フラン》が千法。いや悪くない。そこで三つばかし買って家《うち》へ帰った。そして、卵をかかえて寝込んでしまった。ちょうど三日目の朝、同郷人の赤土焼売《テラコッシェ》が心配して訪ねて来た。
「はて、患《わずら》ったかね」
「患ってるんじゃねえ、卵を孵《かえ》してる。象の卵を孵してる」
「これはしたり、ちょっくら見せてもらえるかねえ」
「とんでもねえ、風邪をひかせる」
「じゃあ、触るだけならよかろ」
「うむ。……じゃ、床のなかへ手を入れて見るがいい。そっとだぞ。そっとだぞ」
 赤土焼屋《テラコッシェ》は床のなかへ手を差し入れた。
「象の卵?……おっと、触った、触った。……南無三《モン・ジュウ》、こりゃどうじゃ、もう孵《かえ》っているに! 俺ぁいまたしかに象の鼻に触った!」
 と、いったが、元来、ココアの実から象の生れるわけはない。またしてもマルセーユ人に一杯喰ったのに違いない。ああ、用心するがよろしい。法螺吹《ほらふ》き、いかさまの、ペテン師の、この乾物屋の主人《おやじ》のような奴ばかりうようよしている、これがマルセーユだ!
 二、憐れなるかな網焼肉《シャトオブリヤン》の命乞い。さて、コン吉ならびにタヌキ嬢の両氏が、コルシカはタラノの谿谷で宏大無辺なる自然を友とし、唱歌を歌いつつ日を過すうち、はや、一ヵ月は夢の間に過ぎ、モンテ・カルロで受けた心の傷《いたみ》もようやく癒《い》えたので、面構《つらがま》えに似気《にげ》なく心の優しい部落の面々に別れを告げ、固く再来を約し、勇ましいタラノ音頭に送られて谷を出発したのは六月の始め。途中マルタ島で珊瑚採取の実況を見物してマルセーユへと到着すれば、七月十四日は革命記念日を兼ねプロヴァンス、ラングドック一帯の大祭につき、アルルの闘牛場《アレエヌ》では、今年の皮切りの闘牛《コリダ》が催されるので、マルセーユはもちろん、プロヴァンス一帯は湧きかえるような前景気。
 とりわけ、今年の催し物は、例年の闘牛のほかに、近県六市から荒牛《トオロオ》の代表を一頭ずつ選び、|牛の競走《フェラード》やら|牛の角力《コンバ・ド・トオロオ》を行なうというので、元来お国自慢の南部《ミデイ》の面々、日ごろたしなむ舌術に拍車をかけ、己《おの》が郷里の牛こそは、天が下にたぐいまれな荒れ大王と、珈琲《キャフェ》店の露台《テラッス》でも四つ辻でも、たがいに物凄い法螺《ほら》の吹き合いから、果てはつかみ合いに及ぶという見るも勇ましき盛況。
 そもそも今年の牛角力《コンバ・ド・トオロオ》の番付けには、

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一、爆撃機。(タラスコン代表)
二、ヘルキュレス。(マルセーユ代表)
三、山猫。(カマルグ代表)
四、東方魔国王《マーゴス》。(ニーム代表)
五、活火山。(アルル代表)
六、屠牛《とぎゅう》所長。(アヴィニョン代表)
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 と、その名を聞いただけでも、気の弱い牛ならば貧血を起こそうという慓悍《ひょうかん》無比の猛牛ぞろい、なかにも、マルセーユ代表のヘルキュレスというのは、当年満三歳の血気盛り、相手の前肢《まえあし》に角をからみ、とたんにやっ! と、捻じ倒す『|足挾み《シイゾオ》』に至っては、誠にもって至妙の術。これに出あってはいかなる猛牛《トオロオ》といえども手も足も出ない。されば、ヘルキュレスはマルセーユにほど遠からぬフォレの荘園に眷属、門弟およそ三百匹をひかえ、当時飛ぶ鳥も落そうという威勢である。
 ここに、六月のとある日、コン吉とタヌが旧港《ヴィユ・ポオル》に近い旗亭《レストオラン》の露台で名代の香煎魚羮《ブイヤベイス》を喰べ、さて次なる牛肉網焼《シャトオブリアン》を待っていると、手近な窓から、見るも無惨に痩《や》せ果てた牛が首を差し入れ、水洟《みずばな》をすすりながら、
「モウ!」と鳴いた。タヌはそれを見るより、
「あら、いやよ! 給仕《ギャルソン》。これではあまり生焼《セニャン》過ぎるわ。もう少しよく火を通して来てちょうだい」といったのはまた無理もない次第であった。
 給仕も飛んで来て、しきりに、しっ! しっ! と追い立てるが一向に動かない。そこでコン吉がつくづくと眺めると、どうやら辱知《しりあい》の牛である。
「タヌ君、どうもこれはどこかで見た牛だと思うが、心当りはないかね。それとも照り焼きになるのが嫌いで命乞いに来たのだろうか」と、神秘的なことをいう。そういわれてタヌもしきりにためつしかめつ[#「ためつしかめつ」に傍点]していたが、やがて急に膝を打って、
「これはコルシカのポピノの家にいたナポレオンよ。ほら、額んとこの王冠の形をした斑《まだら》をごらんなさい」
「なるほど、これはコルシカのナポレオン!」
「ま、ナポレオン、ナポレオン! お前どうしてこんなところへ来たの」といいながら、首をかかえて頬ずりすると、ナポレオンはたちまち四つ足を浮き立たせて恐悦し、涎《よだれ》やら目脂《めやに》やら止めどもなく流し、タヌの手やら顔やらでれりでれりとなめあげた。
 すると、波止場の方から息せき切ってかけて来たのはコルシカ人、ジュセッペ・ポピノ。牛と二人を見るより感きわまったもののごとく、いきなり卓のうえの葡萄酒を続けさまにあおりつけ、
「お前もここにいたか。……いや、両先生、ここでお目にかかったのは、アヴェ・マリアのお引合せ! かたじけない!」といった。
 三、恨みは深しメリヤスの股引《ももひき》、不具戴天の仇。お話申すも涙の種でがす。この父親といいますのは、近県六市は愚かなこと、アルサス、ルュクサンブウルのあたりまで鳴り響いた天下無双の荒牛《トオロオ》でがんした。一旦、円戯場《アレエヌ》の砂に立ってちょいと嚔《くさみ》をするとヴィル・デ・ポオの小道に砂埃りが立つといわれたものでごぜやした。とりわけて、得意の術というのは、尻尾《しっぽ》の房毛の先で、相手の脇の下をこちょこちょとやる。すると向うは、擽《くすぐっ》たいものだから鼻の孔《あな》を拡げてへらへら笑う、その鼻の孔を角の先へ引っ掛けて相手の平駄張《へたば》るまで円戯場《アレエヌ》のなかを引き廻すんでがす。いや、可笑《おかし》いやら、見事やら、『コルシカの鼻輪』といって、牛|角力《ずもう》を見るくらいの衆なら、今でも噂に出るくらいのものでがす。すると一昨年の夏のことでがした。ちょうどマルセーユの『ヘルキュレス』と顔が合うことになりやした。ところが、ま、お聞きなせえまし、なるほどマルセーユ人のすることだ。その『ヘルキュレス』にメリヤスの股引をはかして出したもんでがす。こちらはそんな巧みがあるとは知らないから、いつものようにこちょ、こちょとやるんだが一向感じない。感じねえわけだ、股引でがす。そこで、さんざ擽《くすぐっ》ておいて[#「擽《くすぐっ》ておいて」は底本では「擽《くすぐっ》っておいて」]、もうよかろうと角の先を鼻の先へもって行って、いきなり引っ掛けようとすると、どっこい! 鼻にはちゃんとコルクの栓がしてあるんでがす。こいつあ弱ったとまごまごしている鼻っ先へ、いきなり韮《にら》臭せえ[#「韮《にら》臭せえ」は底本では「菲《にら》臭せえ」]息かなんかふわアと吹っかけておいて、こっちが目が眩《くら》んでぼうとしているのを見すますと、今度は足搦《あしがら》みにして投げ出して、さんざ踏んづけたうえ、おまけにアンタ、無慈悲にも頭へ尿《ピピ》までひっかけた。まるで暗討《だましう》ちでがす。ああ誰れが何といったとて、これぁ立派な暗討ちでがす。さて、この父親は恥かしい口惜《くや》しいで、まるで狂気《きちがい
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