》みてえになっているのを、ようやく揚捲機《あげまきき》で船まで引っぱりあげたが、ああ、さすがはコルシカの牛でがす。この敵《かたき》はきっと忰《せがれ》に討たしてくれよ、と一言いい して、船艙《キャアル》の口から飛び込んで船底に頭を打ちつけてごねやした。泣く泣くみなでビフテキにして喰っちまいましたが、いや、喉に通るや通らずで、ほんに辛い思いをいたしやした。その時この野郎は一年にもみたねえ八ヵ月、まだ角も生えねえ柔弱《やわ》な奴でしたが、親の恨みは通うものか、朝は早くから野山羊と角押しする、郵便配達を追いかけるワ、橄欖《かんらん》畑を蹴散らすワ、一心に修業に心を打ち込む有様というものは、はたの見る目もいじらしいほど、だからわしらも共々に赤布《ムレエータ》であしらう、網をかけて引き倒す、水泳《みずおよ》ぎをさせる、綱渡りをさせる、寝る目も寝ずに仕込みまして、どうやら荒牛《トオロオ》らしい恰好だけはつけましたが、なにしろまだ一歳と六ヵ月。それに相手はフォレの囲い場に頑張って、当時|旭《あさひ》の昇るような勢いの『ヘルキュレス』、勝目のところはよく行って四分六《しぶろく》、せいぜい七分三分の兼ね合いというところ、何分《なにぶん》にも望みのすくない話でごぜますが、そこのところをなんとか智慧をしぼれば勝てねえわけもねえのでがす。さ、両先生、お願いと申しますはここのところ、ひとつ、助けると思って、頭をひねり、ぜひとも勝たしてやっておくんなせえ。『ヘルキュレス』を円戯場《アレエヌ》の砂に埋めて、忌々《いまいま》しいマルセーユ人に鼻をあかしてやらなければ、コルシカ人は大きな顔をしてプロヴァンスの街道を道中できねんでごぜえます。おいおい族長《パトラン》も若いやつらもあとからやって来て、応援掛声のほうはなんとでもいたしますから、どうか肩を入れておくんなせえまし。これヨ、ナポレオン、ぼんやりしていねえでお前からもひとつお願いするがよかろう。おお、そうか、よしよし。両先生、見てやってくだせえ。ナポレオンもあの通り手を合わしてお願いしておりやす。ね、よろしくたのむッ! コルシカのためでがす。
四、酒の酔いは色に出《い》でけり赤煉瓦色に。コン吉とタヌが薔薇《ロジェ》の木の花棚の下で待っていると、目もはるかな荘園に続く大きな木柵《もくさく》をあけて、皮の脚絆《モレチエール》をはき、太い金鎖《きんぐさり》をチョッキの胸にからませた夕月のように赤い丸い顔をした田舎大尽《いなかだいじん》風の老人がのっしのっしと現われて来た。
これが鷹揚《おうよう》に二人の挨拶を受けると、太い葉巻に火をつけて、
「わしが、プロヴァンス闘牛研究会の会長でごわす。ご両所はどういう御用件で」と、たずねた。
「僕たちはですね、一|口《くち》に申しますと牛の学者なんです。世界中の有名な荒牛《トオロオ》を拝見して、そのですね戸籍謄本を作って和蘭《オランダ》の王様に献上しようと思っているんです。それについてはですね、あなたのところの『ヘルキュレス』君を拝見しないことにはお話にもなにもなりませんですからね、それでこうして、第一番序の口にあがったというような次第なんです」と、廻らぬ舌を必死に操《あやつ》りながらこれだけいうと、タヌもそばから、
「でございますから、実物を拝見させていただきまして、できるなら逸話とか出世美談、それから、できますなら、『ヘルキュレス』君の長所短所、そんなところまでうかがわしていただきますと、有難いんですわ。本ができましたら、無代で十冊でも二十冊でも進呈いたしますわ。もしなんでしたら、あなたのお写真なんかも巻頭にかかげたいと思っておりますの。ねえ、いかがですか」
「いやわかりましたじゃ。つまらぬ評判はもうお聞きおよびのことでしょうから、ひとつ、小話になるような逸話を申し上げますじゃ。なんでも一歳二ヵ月の春でごわした。ある日、わしの荘園におった闘牛師《トレアドール》の仕出しが喰らい酔いよって、何を思ったか細身《ほそみ》をぬいてそこらじゅう刺し廻る、ピストルをぶっ放す、どうも危なくて近寄れません。すると、『ヘルキュレス』のやつがいきなりそっちにかけ出してゆくから、ああ、危ないな弾《たま》にうたれはしないか、と眺めていると、囲い場の柵に乾《ほ》してあった牧夫の赤い腹巻をひょいと角に引っ掛けて行って、その闘牛師の鼻っ先で振り廻し振り廻しして、とうとう怪我《けが》もさせずに番屋へ追い込んだというでごわして、へ、へ、いまでもこのあたりの一つ話になっているくらいでごわす」
「ま、お利口《りこう》だこと」
「なんとも驚きいったものです」と、コン吉とタヌは声をそろえて感嘆すると、会長はうわははは、と喉仏《のどぼとけ》も見えるような大笑いをしてから、
「それから、二歳四ヵ月の夏のことでごわした。ニースからポッペ・マリオの一座がやって来た時のことでごわすが、『ヘロデ王と牛』というやつに出演いたしまして、ヘロデ王に叱《しか》られるとべそをかく、褒賞《ほうび》をもらうと押し戴く、ディヤナには色目を使うという工合で、天晴《あっぱ》れ一役をやってのけました。牛の皮をかぶった人間だってよもやあれまではやりこなしますまい。円戯場《アレエヌ》では向うところ敵なし。あいつの角にかかった馬は二百匹、闘牛師が三百人、牛が五百頭。……一|時《じ》は牛も闘牛師も種切れになるところでごわしたわい。最近は右の前足の付けねに腫物をでかして弱っとりますが、なんの、カルグの、アルルの、そこらの病み牛が束になって来たとて、びくともするものでごわせんわい。……いま、ここへ引き出しまするから、とっくりごらんなさるがようごわす」と、いって使童《ギャルソネ》を招いて、何か小声で囁《ささや》くと、やがて牧童が柵の木戸をあけて牛を一匹追い出して来た。
「さ、これが自慢のヘルキュレスでごわす」
二人が振り返って見ると、赤煉瓦色の、まるで駱駝《らくだ》のような奇妙な瘤《こぶ》を背中にくっつけた跛《びっこ》の牛だから、タヌは驚いて、
「あら、でもヘルキュレスというのは、頭から尻尾まで真白な立派な牛だってことですが、……でもこの牛は赤いですわ」というと会長は丸い顔をつるりと撫で、
「なアに、こいつは今朝《けさ》から赤大根《ベットラヴ》の喰いづめで、それにそれ、赤葡萄酒《シャトオ・ヌウフ》の生《き》一本を二|升《ヒドン》ばかりやったのでこんなに赤くなったのでごわす」といった。
五、犬にも徳育、豚にも愛嬌《あいきょう》、されば牛にはご修身。『闘牛学校』という看板のかかったアーチ形の入口についていた呼鈴《ベル》を押すと、出て来たのは、寸詰《すんづま》りのモオニングを着た五尺未満のチョビ髯の紳士はこちらが述べる用向きを途中から引ったくって、
「委細《いさい》承知。みなまで仰言《おっしゃ》るな。つまりですナ、この牛君……牛様に武芸万般を仕込んでぜひともヘルキュレスを闘技場《アレエヌ》の砂に埋葬しようという。……それならば秘策は万事|拙者《せっしゃ》の方寸にありますヨ。なるほど、こう申しては失礼ですが、お子供衆を拝見いたしますと、まだいささか柔弱の趣きですナ。しかしです、貸すに二週間の時日をもってせられるならばです、質実剛健、思想堅固|天晴《あっぱ》れ、天下無双の猛牛《トオロオ》に仕立てて御覧にいれますヨ」と、反《そ》り身になった。タヌは、殊勝らしく一礼して、
「それはもう一|切《さい》おまかせいたしますが、どういう修業の方法をいたしますか、念のためにおうかがいいたしますわ」と、いうとチョビ髯先生は、
「いや、そこに如才はありませぬ。論より証拠、この教課一覧をご覧願います」と、差し出したのは、
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七時 起床。
七時半 修身。
八時 繩飛び。
八時半 ランスロット式柔軟体操。
九時 体術《リュット》。
十時――十一時半 銛《もり》打ち。
十二時 昼飯《ひるめし》。
二時 高飛び。
三時 マラソン競走。
四時 馬術。
五時 読心術。
六時 突撃術。
七時 翻身《へんしん》術。
七時半 会話。
八時 就寝。(ただし、通学生はこの限りにあらずと知るべし)
[#ここで字下げ終わり]
一同はつくづく感じいっていたが、やがてコン吉は恐る恐るの体《てい》で、
「なかなか結構なお仕組みです。しかしですね。ちょっと御質問いたしますが、この修身というのと会話というのは一体どんな事になりますのでしょうか」と、たずねると、先生はこともなげに、
「いかさま、これは人間のために作った教課でありますから、牛様には不適当な部分もあるかと存じますが、しかし、当校の方針といたしましてはですナ、万事平等、友愛、牛であろうと人間であろうと選ぶところはない、一|切《さい》無差別に教育いたします。でただ今質問になりました修身ですナ。しかし、古来犬にも徳育、豚にも愛嬌という諺があります。されば牛に修身の教課が必要ないということはありませんナ。本校の修身と申しますものはもっぱら牛道の基礎となる騎士的精神に磨きをかけるためでございます」
「ごもっともさま、そのご意見には大賛成でございますわ。でもね、この馬術というのはどういう事なんですの。牛が馬に乗る……ちょっと想像ができませんわ」
「これはしたり。馬術でいけなければ、牛術でもよろしゅうございましょう。これは乗るほうでなくて載《の》せるほうですヨ。好きなやつなら乗せる。いやなやつなら振り落す、と、この根本の技術を教えるためでございます」
「そういう心得もおおいに必要かも知れませんな。くどいようですが、最後にもう一つ……。この読心術というのは一体何のことですか」
「さ、そこが本校の自慢の課目ですヨ。たとえばですナ、牛と牛が向き合う、すると向うの牛が、きょうは喰い過ぎているから胃袋だけは突いてもらいたくないと思ったとする。そこでこちらはいち早く敵の心中を読破して、敵が一番|苦手《にがて》とするところを攻撃しようとする、――つまり、その術ですヨ。それに突撃術に翻身術、それから体術《リュット》、……といっても人間の体術《リュット》ではありません。牛と牛の体術《リュット》。……相手は、ええ手前が努めます。というわけで、ひっくるめて一日八時間、これを二週間もやったら、はばかりながら天下無敵。どうぞ御安心のうえお引き取りを願います」
六、武芸百般、武者にもポルカの嗜《この》みあり。ちょうど二週間目の朝、ナポレオンはポピノに連れられて闘牛学校から三人のいるクウルス街の馬宿までもどって来た。
コン吉とタヌの二人が、しきりにとみこう見するが勇気|凛々《りんりん》たるところがない。毛の艶《つや》も悪くなり、しきりに生欠伸《なまあくび》をして、涎《よだれ》を流す有様はなかなか生《なま》や愚かの修業でなかったことがわかる。ポピノは軽くナポレオンの首筋を撫でながら、
「や、ご苦労、ご苦労。さだめし骨の折れたことであろう。骨休めはあとでゆっくりするとして、ここで一つ武芸の型を見せてもらわねえことには安心がならねえ。……ねえ、令嬢《マムズル》これから、中庭へ引き出して手並みのほどを見べえじゃごぜえませんか」
「そうね、じゃ、ナポレオン、しっかり手並を見せてちょうだい」
そこで中庭へひき出して、コン吉とポピノがかわるがわるモウ! モウ! と気合いをかけるとナポレオンは何思ったか後肢《あとあし》でそこへ坐り込み、犬がするような見事なチンチンをして得意満面の体である。タヌは見るより眉を顰《ひそ》めて、
「ま、お前はなんて情《なさ》けないまねをするの。チンチンなんかよして威勢のいいところをやらなくちゃ駄目じゃないの」と、声を励まして叱りつけると、ナポレオンはしばらくは情けなさそうな顔をしていたが、こんどは、おりから鳴り出した蓄音機のポルカに調《あわ》せて、ステテン、ステテンと踊り出した。
三人もろともに呆気《あっけ》
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