尻を向け、跳ねあがりながらとんでもない方へ逃げ出した。と、見ているうちにはるか向うの塀ぎわでくるりと向きを変えると、山道をかけくだる猪《いのしし》のような一本調子で『ヘルキュレス』めがけてまっしぐらに飛び込んで来たが、南無《なむ》三、少々方角が違ったので、『ヘルキュレス』の尻尾のそばを通り過し、そばの塀のなかへ角を突っ込み、そこで、もう! と鳴いた。
 九、的に声あり降参降参という。勝負はなかなかつかない。それで一旦引き分けて|中入り《アントラクト》になった。
 これからの顛末《てんまつ》はもう長々と書きつづけるにはおよぶまい。|中入り《アントラクト》がすんで、穹門《アルク》から現われた『ヘルキュレス』の横っ腹を見ると、右の前肢《まえあし》のところに、誰れの仕業か、黒ペンキで大きな的が書かれてあった。続いて出て来たナポレオンはというと、低い鼻のうえに、コン吉の乱視の眼鏡がかけられてあったのである。
 たちまち勝負はあった。『ヘルキュレス』は腫物のうえをいやというほど突かれて、砂のうえに前肢を折って降参、降参した。
 つまり、コルシカが勝ったのだ! これで以後|忌々《いまいま》しいマルセーユ人は、牛角力《コンバ》に関する限りあまり大きな法螺《ほら》は吹かないであろう。
 コルシカ万歳!



底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
   1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
   1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「新青年」
   1934(昭和9)年6月号
※表題は底本では、「乱視の奈翁《なおう》」となっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング