ン吉が、詩神《アポロン》の大威業力に依願し、前掲の拙劣なる短詩をコントラ・バスの伴奏にのせ、日ごと毎日わびしげに独唱するところ、凡夫の悲願、タヌキ菩薩もあわれと思召《おぼしめ》し給いけむ二月上旬のとある天気晴朗の朝、避寒ならびにコン吉の脳神経に栄養を与えるため、地中海沿岸の遊楽地へ向けて再度出発することに決定、けだしコン吉が手籠の編目に、三昧の鼻の先を突っ込んで寝こけているのは、いまや大願成就して、欣求《ごんぐ》の南方極楽浄土《コオト・ダジュウル》におもむくその途中にほかならぬ。
二、問うに落ちて語るに落ちぬ絵入りの禅問答。どこやらで「馬耳塞聖舎婁《マルセーユ・サン・シャルル》」と呼ぶうるさい声々、赤帽《ボルトウル》を呼ぶ口笛と鼓沓然鞄《どたばたかばん》を昇降場《ケエ》に投げ出す音、ひっきりなしに開けられる窓から吹き込む冷たい風……誰れやらの手で不意に触られて、吃驚《びっくり》して飛びあがったコン吉がキョロキョロと隔室《コンパルチマン》のなかを眺むれば、列車はもうよほど以前にマルセーユに到着したものとみえ、相客は一人残らず下車し、あとには泰然と眠るタヌと自分のただ二人、日ごろ小胆なる
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