コン吉は、なんということなく心細くなって、
「モシ、モシ」と、タヌをゆすり起こすと、タヌは、寝ぼけがちなる眼瞼《まぶた》をしばたたきながら、
「あら、また巴里なの」と、神秘的なことをいう。
「いや、ここはマルセーユです。しかしね、あまり寝ると今度は、伊太利《イタリー》の方へ行ってしまうから、ここらで目を覚ましてはどうですか、それにしても夜がふけたとみえて、だいぶ冷えて来たから燃料補給のため、僕はこれから駅食堂《ビュッフェ》へ行ってサンドイッチでも買って来るつもりです。――そちらに何かご注文がありますか」
「熱いショコラを一杯買って来たまえ」
「ショコラを一杯。――もし熱くなかったらどうしますか?」
「機関車へ行って暖めていらっしゃい」
「はい、かしこまりました」と、コン吉が、扉を開けて廊下へ出ようとすると、その一尺ほどの扉の隙間から、凩《こがらし》のようにひょろりと吹き込んで来た一着の銀鼠色《ぎんねずいろ》のモオニング。――黒琥珀《くろこはく》の袋に入れた長い折り畳み式釣竿のごときものを小脇にかかえ、大きな自動車用の塵《ちり》除け眼鏡をかけ、真紅《しんく》の靴下にズックの西班牙靴《エス
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