lはこうして腹んとこに湯タンポを支えてるので滑り落ちそうで仕様がない」というと、タヌは派手な男襟巻《マフラア》を巻き付けた顎《あご》で、右手の箱のようなものをしゃくって見せ、
「ここにあるよ。しっかり眼を覚まさなくては駄目ね」と答えたのである。
さればコン吉は、その薄鉄板《ブリキ》製の茶箱の前後に、生来キョトキョトと落着かぬ視線を走らせて眺めるところ、これは十年ぐらい前には確かに自動車であったに違いない、そういう痕跡は今でもところどころにほのかに残っているのである。――さながら物に脅えた病み猫のごとく背中を丸め、中腰になって構えているその姿というものは、実にこれ酸鼻《さんび》の極み、一九八五年に、初めてブウロオニュの森林公園《ボア》を散歩したパアナアルの石油自動車《ヴォアチュレット》もかくやと思うばかり。踏段《マルシュ》は朽ち前照灯《フェラン》は首を折り、満足に泥除けの付いているのは後ろの車一つだけ。そのうえ、車の背中には、唐草模様の枠の中に、次の様な金文字が麗々しく書かれているのである。
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