ホしいというわけにはゆかず、今年の冬はぜひとも巴里の冷たい霧から逃れ、南仏蘭西の海岸に日光と塩分を求めて転地しなければならぬという、医師の勧告に従うのやむなきに立ち到った。
しかるべき手廻りの品も鞄に納り、行先きは岩赤く海碧きサン・ラファイエルの岬か、ミモザと夾竹桃《ロオリエ・ロオズ》の咲くヴィル・フランシュの海岸と定め、早朝から里昂停車場《ギャアル・ド・リヨン》へ座席の予約に行ったタヌは、さてその夕方になってから、はるか谷底の舗道の上で、
「コン吉よ、コン吉よ」と、けたたましく呼ぶのである。素破《すわ》また事件の到来、凶事の発端、と、よろめく足を踏みしめながら、鉄鎧戸《ベライン》を開いて露台から霧の街道を見おろすと、タヌは何やら黒い物体の上に跨《またが》って、はなはだ快適な嬌声をあげているので。
「コン吉よウ! これなんだかあててごらんなさアい!」
「芥箱《ごみばこ》の上なんかで遊んでいないで早く上がって来うい」
「なにいってんのよウ。これは自動車だぞオ!」
「誰れのだあ?」
「買ったのよウ!」
「金はどうしたア?」
「君の為替で買ったんだア」
そこでコン吉は、まだ充分健康を回
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