tまない様に用心しながら、途切れ途切れにこれだけいうと、タヌは、
「巴里に引き返すといったって、この車は前だけにしか動かないよ。お腹《なか》がすいたら、この籠の中に麺麭《パン》と牛酪《フウル》が入ってるから、それでも喰べて我慢していたまえ」と、背中越しに籠を突き出してよこした。
 コン吉は一|切《さい》を運命とあきらめ、包をあけて麺麭《パン》にバタをぬろうとしていたが、やがて、
「タヌ君、どうだろう。麺麭《パン》にバタをぬる間だけ、ちょっと自動車をとめてもらえないだろうか。なにしろ、バタのナイフが眉間《みけん》や喉へ来そうで危なくて仕様がない」
 タヌは運転台の鏡の中で眉を顰《ひそ》めながら、
「パンを一口喰べてから、バタを指で掬《すく》って※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]《な》めればいいじゃないの。君もずいぶん馬鹿ね。この車は一度停めたら、動き出すまでにはなかなかだから、停めるわけには行かないよ」
「では、バタの方はそれでいいとして、速力の方をもう少し出してもらうわけには行かないだろうか。僕はもうサラドの畑を見るのは飽き飽きした。少し変った景色も見せてもらいたいもの
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