セね」
「でも、これより出すと危ないよ」
「いや、そんな事はあるまい。今すれ違った葬式の馬車だって、この車よりは早く走っていたからね。せめて、あの程度にやってもらいたいものだ」
「君さえ承知なら、やって見ましょうか」といいながら、タヌがぐいと緩急機《デクント》を変えたと思うと、そのとたんコン吉は、ビックリ箱から跳ね出した三毛猫のように座席から飛びあがり、寝巻のままでサラド畑の中へ投げ出された。
さて、難行苦行のすえ、フォンテエヌブウロオの森をはるか左に見、ロアンの運河《キャナアル》にそったモレという町に到着したのは夜の九時過ぎ。この日の行程わずかに六十四粁《じゅうより》。思い遙かす、ニースまではまだこれから千〇二十四粁《にひゃくごじゅうろくり》の長道中。この調子では、今年中にゆきつけるものやら、来年の春までかかるものやら、コン吉は胸を抱《いだ》いてはなはだ憂鬱。
七、雑魚《ざこ》の魚交《ととまじ》り、並びに生簀《いけす》の悶着のこと。翌日の出発は午前七時。タヌに寝床から引きはがされたコン吉は、何を思ったか上衣《うわぎ》の下に剣術《エスクラム》の|胸当て《ブラストロン》のごとき、和製の真綿のチョッキを着込み、腹と腰に花模様の華やかな小布団《クッサン》を巻き付けたのは、多分防寒のためというよりは、街上に投げ出された時の用心のためであるらしかった。パンにはあらかじめバタをぬり、気附《きつけ》薬のために「ナポレオン三世」という銘のある葡萄酒を六本までも仕込んだのは、はなはだ時宜に適した思い付き。タヌはと見れば、これもまた髪を梳《くしけず》り、丹念に爪を磨き、キャロン会社製造の「|謝肉祭の夜《ニュイ・ド・ノエル》」という香水をさえ下着に振り撒《ま》いたのは、その昔、東邦の騎士《キャヴァリエ》が兜《キャスケ》に香を焚きしめたという故事もあり、覚悟のほども察しられて、勇ましくもまた涙ぐましき極みであった。
決死の両士を乗せたアランベエル商会の自動車は、遅々《ちち》としてヨンヌの平野をのたくりゆくうち、ようやく正午《ひる》近く、サンの町の教会の尖塔が、向うの丘の薄陽《うすび》の中に浮びあがって見えるところまで辿り着いた。コン吉は今日こそは正当《まとも》な昼飯にありつけると、心情いささか駘蕩《たいとう》たる趣きを呈《てい》しかけて来たところ、アランベエル商会は、その町の入口で
前へ
次へ
全16ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング