トいる様子。
雑然たる工場と、ボンボンの箱のような小住宅が雑踏する巴里の郊外地帯《バンリュウ》を離れると間もなくブウレエの石切り場にさしかかる。コン吉がこの大震動の間から、そっと偵察の目を押し開けて眺むれば、遠い野面《のづら》には霜に濡れた麦の切株、玻璃鐘《はりしょう》の帽子をかぶせたサラドの促成畑、前庭に果樹園を持った変哲もない百姓小屋、いずれも駱駝《らくだ》色に煤《すす》ぼけ、鳥肌立ったる冬景色。
巴里の市門《ポルト》イヴリイをよろめき出してから三時間あまり、もうオオゼエル村のあたりまで来たのでもあろうかと、ふと何気《なにげ》なく巴里の方を振り返ると、ナント、エッフェル塔は三色旗をかかげて、まだほんの間近にそびえ立っているという有様。これにはコン吉も呆《あき》れ果て、
「どうだろう、これからおいおい速力が出るという工合になるのだろうね。昼飯はオオゼエルの野菜料理屋で、名代のオムレットを喰べさせると君はいったが、もうそろそろ正午《ひる》だというのに、今見たらエッフェル塔はまだ目のしたにある様子だ。このぶんでは、巴里まで引き返して昼飯にした方が早そうだね。どうだろう」と、舌を噛《か》まない様に用心しながら、途切れ途切れにこれだけいうと、タヌは、
「巴里に引き返すといったって、この車は前だけにしか動かないよ。お腹《なか》がすいたら、この籠の中に麺麭《パン》と牛酪《フウル》が入ってるから、それでも喰べて我慢していたまえ」と、背中越しに籠を突き出してよこした。
コン吉は一|切《さい》を運命とあきらめ、包をあけて麺麭《パン》にバタをぬろうとしていたが、やがて、
「タヌ君、どうだろう。麺麭《パン》にバタをぬる間だけ、ちょっと自動車をとめてもらえないだろうか。なにしろ、バタのナイフが眉間《みけん》や喉へ来そうで危なくて仕様がない」
タヌは運転台の鏡の中で眉を顰《ひそ》めながら、
「パンを一口喰べてから、バタを指で掬《すく》って※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]《な》めればいいじゃないの。君もずいぶん馬鹿ね。この車は一度停めたら、動き出すまでにはなかなかだから、停めるわけには行かないよ」
「では、バタの方はそれでいいとして、速力の方をもう少し出してもらうわけには行かないだろうか。僕はもうサラドの畑を見るのは飽き飽きした。少し変った景色も見せてもらいたいもの
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