し、
「これで、確実に、受遺《じゅい》の効力が発生したわけで、相続税金及び銀行手数料その他を支払った残余、四千二十五万六千四百六円七十二銭は、今日から、ご自由の用途においてお使いなさってよろしいのです。……この紙挾みのほうは、支払いの明細書と受領証、こちらの角封筒の中には、預金帳と、有価証券及び公債《こうさい》証書の目録が入っております」
そういって、弁護士が帰って行った。
たった十分間ほどの会見で、キャラコさんは、約四千万円の金持になってしまった。
弁護士が帰って行ってから、やや長い間、キャラコさんは玄関脇の六畳で、ムッとしたような顔で、ひとりで坐っていた。
何か、えらいことが始まったような気がするが何がどうえらいのか、その意味が、はっきりと頭に訴えて来ない。
卓《テーブル》の上に置かれた、物々しい紙挾みと嵩張《かさば》った白い大きな角封筒を、珍らしい生物でも眺めるような眼つきで、眼の隅からジロジロと見物していたが、そのうちに、なんともいえない重苦しい不安と、得体の知れない憂愁の情に襲われはじめた。
紙挾みのほうには、『常松《つねまつ》法律事務所』と固苦しい大きな活字で名を入れてあり、正金銀行の角封筒には、警察の徽章とよく似た金色《きんいろ》の紋章が鮮やかに刷り出されてある。
こうして、この二つが並んだところを眺めていると、なんとなく『罪』とか、『悪』とか、『法文』とか、『刑罰』とか、そんなような、あまりゾッとしない忌わしい文字が、次々に連想の中へ浮びあがってくる。
波瀾のない、平和な自分の生活の中へ、ぼんやりとした暗い影を背負った不吉なものが、無理やり割り込んで来たように思われてならない。形容のつかない色々繁雑なことや、手に負えないめんどうなことが、今日から数《かず》限りとなくひき起こって来るような気がする。
これからは、とても、今までのように呑気にしているわけにはゆくまい。
望んでもいないのに、無理やり大人にされてしまったような、浮世の荒波《あらなみ》の中へ急に押し出されたような、知らない他国で日が暮れかかったような、何とも頼りない、心細い気がする。じっさい、この厳《いか》めしい活字や金色《こんじき》の紋章は、今までのじぶんの生活とは、いかにも縁の遠いもので、どうしても心がなじまないのである。
キャラコさんは、おずおずと手を伸ばして、指の
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