手でやさしく馬の鼻面をおさえ、片手で秣のなかの木片や小石をとりのけながら、こんなふうにいってきかせているのである。
「待ってろな。……いつぞやのように、釘なぞはいっていたら、また口を傷《いた》めるだろが。……ほらほら、もう、すぐぞ、もう、すぐぞ」
 まるで、大膳職《だいぜんしょく》のように、あれこれと細かく念をいれたすえ、ようやく飼料《かいば》が出来あがる。
 老人は、秣槽《まぐさおけ》を飼料台の上にのせ、馬が喰べはじめるのを、後手《うしろで》をしながら、ひととき、うっとりとながめる。
「たんと、喰べろ、たんと、喰べろ」
 そういいながら、着物をだいじにするひとがちいさな汚点《しみ》でも気にするように、馬の横っ腹にくっついた泥の飛沫《はね》を、掌でていねいにぬぐってやる。
「たんと喰べろ。……あわてずと、ゆっくり喰べえよ」
 ところで、槽《おけ》の中にはたんと喰べるほどの秣ははいっていない。間もなく槽の底が見え出す。
 馬は脅腹《わきばら》のところをピクピクさせながら、眼のところまで槽の中へ突っこんで、ぐるりについている秣のきれっぱしを舐《な》めとろうとするが、馬の唇ではそれをつまみとることができない。
 すると、老人は、
「おお、よしよし」
 と、いいながら、秣の屑を丹念にかきあつめ、それを掌《て》にのせて馬の鼻先へさしだしてやる。馬は、長い舌でデレリと舐めとると、満足したというふうに、眼を細くして、鼻面で老人の肩へしなだれかかる。
 老人は、平手でやさしく馬の首をたたく。
「おお、すんだか、すんだか。……せめて、もう四半桶《しはんおけ》もほしかろうも、がまんせい」
 そして、馬車の上の苗木のほうを顎で差して、
「あれが、一本でも売れたら、胡蘿蔔《にんじん》を三銭買ってやるけに、たのしみにして待っていろよ」
 いつの日も、判でおしたように、これをくりかえす。これほど胸をうたれる光景はなかった。
 老人は、馬車の側板《わきいた》の折り釘に引っかけておいた小さな包みをはずすと、
「では、おれは、午食《ひる》をつかってくるけに、しばらくここで待っていろ、いいか」
 と、いいきかせて、軽い跛《ちんば》をひきながら公園のなかへはいってくる。
 やれやれというふうにベンチへ腰をおろすと、弁当の包みをたいせつそうに膝のうえへおいて、ニコニコと笑いながら、ひとわたりグルリと公園の
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