りつくまでの、苦心や悩みをつぶさに訴えたいと思うのだが、どうもうまくいえそうもない。断念《あきら》めて、こんなふうにいう。
「あたし、これでも、ちょっと敏感なところがありますの。自分の記憶だけで、ここまでやって来ましたのよ。……むかし、一度ここへ来たことがあったってことは、あたしも薄々知っていましたの。でも、それがいつだったのか、ここで何をしたのか、まるっきり記憶に残っていませんの」
 そのひとは、玄関の石段にしゃがみながら、
「それは、とても大変だったんだよ。……もう、何年になるか、よく覚えていないけど、君が叔父さんというひとと、この辺へ遠足に来て、とつぜん、えらい熱を出して、わけがわからなくなってしまったんだ。……なにげなく、アトリエの窓から見おろすと、君の叔父さんが、あそこの木槿《ぼけ》のあたりで、君をかかかえてうろうろしている。……そのころ、この辺には、僕の家だけしかなかったもんだから、かまわないから、って、そういってね、僕ンところへ入ってもらって、医者が来るまで、井戸水を汲《く》んじゃ君の頭を冷やしていたんだ。……叔父さんというひとは医者を迎えに行ったきりなかなか帰って来ない
前へ 次へ
全22ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング