「お静かでお羨《うらや》ましいわ。……いつだって雁来紅《はげいとう》は真っ紅だし、陽が照っているし、日暦《カレンダー》は、いつも、九日の日曜日だし……。うちあけたところ、あたしも、こんなふうに、ひっそりと暮らすのが理想なのよ。ほんとうに、なんていいんでしょう」
 奇妙なことには、キャラコさんが話しかけるのは、長椅子の後ろに立っている青年のほうにかぎるのである。
 おっとりと坐っている妹らしいひとには、まだ一度も言葉をかけたことがない。なんだか気ぶっせいで、嫌《いや》なのである。なるたけ、そのほうを見ないようにしている。
 家へ帰ってからも、この絵のことが心について離れない。あまり寝苦しいなどと思ったことのないキャラコさんなのだが、このごろはなんとなく寝つきがわるい。頭の下で、いくども熱い枕を廻す。ときどき、そっと溜息をついている自分に気がついてびっくりする。
「おやおや、なんだか、困ったことになったわ」
 三晩ほどそんなことをくりかえしたすえ、とうとうもて余して、イヴォンヌさんにそれをうちあけた。
 イヴォンヌさんは、栗鼠《りす》のような大きな眼をクルクルさせながら、
「それは、たいへんね。きっと、なにか、始まりかけているんだわ」
 キャラコさんは、すこし、赧《あか》い顔をした。
「ええ、あたしも、そう思うの。……あの絵のことを考えると、胸んところが、熱くなったり冷たくなったりして、なんだか妙に落ち着かなくて困るのよ」
「ふうん、熱くなるって、どんなふうなの」
「つまり、ドキドキするのよ。身体じゅうの血が、そこへ集まって来るようなの」
 イヴォンヌさんは、むずかしい顔をする。
「あまり、いい徴候じゃありませんな」
 キャラコさんは、聞こえない振りをした。
 イヴォンヌさんは、すかさない。
「ほら、ね。聞こえない振りなんかする。……いよいよもっていけないな。要するに、あなたは、あの絵の青年が好きになってしまったのよ」
 キャラコさんが、あわてて立て直す。
「イヴォンヌさん、あなたすこし過敏よ。……あたしが、あの絵にひきつけられるのは、そんな意味じゃないと思うわ」
「じゃ、いったいどうなの?」
 キャラコさんが、大きな声を、だす。
「あれはなんという流派《エコール》の絵か知らないけど、なんとなく、あたしの趣味にぴったりするのよ。あの絵のは、ひどく浪漫的《ロマンチック》で、それに、いろいろ空想的なものがあるでしょう。そんなところにひきつけられているんだと思うわ」
 イヴォンヌさんは、頑固に首を振る。
「信じられないわね。あなたがあの絵にひきつけられているのは、そんな高尚なことじゃなくて、あの絵の中の生活を愛しているのよ。あたしには、それが、はっきりわかるの」
 キャラコさんは、聞きとれないような声を、だす。
「よく、わからないけど……」
 イヴォンヌさんは、ニヤリと笑う。
「わかるようにいってあげましょうか。……あなたはね、絵のなかのお嬢さんのように、あの青年にあんな深い眼付きで凝視《みつ》められたいと思っているんだわ。これが、あの絵があなたをうっとりさせるゆえんなのよ。……どう? おわかりになった?」
 キャラコさんは、横を向いて、またきこえないふりをした。

 なんだか、ぼんやりとわかりかけてきた。もっとも、キャラコさん自身も、心のどこかで薄々《うすうす》感づいていたのである。
 ただ、油絵の中の青年が好きになったなどというのはあまりにも奇抜すぎるので、キャラコさんの心が、それを承認することを拒みつづけていたのである。
 しかし、それも、よく考えてみると、かくべつ、不思議だというようなことでもない。じぶんは、この青年に、いつかいちど逢ったことがあって、その時、強い印象を受けたまま忘れていたが、偶然、飾窓の絵の中でその青年に再会して、古い記憶が急に甦《よみがえ》ったのだと考えられないこともない。
 そういえば、これとよく似た配景を、いつか一度見たような記憶がある。雁来紅《はげいとう》の紅さも、夕陽の色も、おどんだような部屋の暗さも、このままのようすで、心のどこかに残っている。また飾棚《マントル・ピース》の上の琥珀貝の帆前船にも、確かに触《ふ》れた覚えがある。薄い、冷《ひや》りとして貝細工の感触が今でも指先にあるような気がする。
 最初、あの絵を見たとき、その中へスルスルと入ってゆけそうに思ったのは、絵の表現によることではなくて、それが、むかし、非常に親しかった風景だったからかも知れない。
 しかし、ひょっとすると、それは、夢のなかで見た景色だったようにも思われる。
 遠い丘の上で、夕陽を浴びて立っている城のような白い建物や、陰影もなく、碧一色《あおひといろ》に塗りつぶされた空のようすなどは、なにか、とりとめなくて、夢の中の景色に
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