は、日暦《カレンダー》や、目覚し時計や、琥珀貝《こはくがい》でつくった帆前船《ほまえせん》などがのっている。明け放した硝子扉《ケースメント》の向うは、ゆるい起伏のある丘で、はるか遠いその稜線《りょうせん》のうえに、中世紀の城のような白い家がぽつんとひとつ立っている。
 部屋のなかは、濃い褐色《セピア》と黒っぽい藍色《あいいろ》のなかに沈んでいるのに、外景には三鞭酒《シャンパン》色の明るい光が氾濫している。夏の、あのはげしさはなく、しっとりと落ち着いた調子がある。窓のそばに、燃えるような雁来紅《はげいとう》があるので、秋の中ごろの午後の風景だということがわかる。
 一体にクラシックな画風で、日暦《カレンダー》の日づけや草の葉の細かい葉脈まで克明に描《か》いてあり、襞《ひだ》の深い丸い丘や城のような建物の背景のぐあいは、ちょうど、『モナ・リザ』の、あの幻想的な遠景とよく似ている。
 だいたい、こんなふうな絵である。格別、どこといって奇抜なところもなければ、目をそばだたせるようなところもない。狭い画面のなかに、いろいろなものが押し並んでいるので、むしろわずらわしくさえ感じられる。
 キャラコさんは、飾窓に鼻をおっつけながら、ゆっくりとその絵を鑑賞する。
 芸術的な価値はともかく、なにしろ、そんなふうに手のこんだ絵なので、飾り皿の微小画《ミニアチュール》を眺めるほどの面白さはたしかにある。それらと同じように、この絵のなかにも、たぶんいろいろなものが隠れているのに違いない。帰りに、またここへ寄って、ゆっくり探し出してやろうと思いながら飾窓《ショウ・ウインドウ》から離れて二三歩歩きだした。なにげなくそこで立ちどまって、もう一度、そのほうへ振りかえって、おもわず、
「おや!」
 と、眼を見はった。
 まったく、ふしぎなほどだった。ここから見ると、あの雑然とした絵が、とつぜん、生々《いきいき》とした実感をもちはじめた。人も、花も、丸い丘も、黄色い陽ざしも、みな、たとえようもないような完全な調和をたもちながら、しっとりとした深い奥ゆきの中で落ち着いている。額椽《がくぶち》の向うと、琥珀色の陽がさしている、もうひとつの別な世界があって、そこで、現実の生活とは関係のない、季節と日常がくりかえされているのではないかというような気がする。
 そればかりではない。この奇妙な、深い奥行きは、いったいなにから来る感じなのであろう。どういう不思議な遠近法によるのか、その気になれば、わけもなくスラスラと、その中へはいってゆけそうな気だった。
 キャラコさんは、魅《まど》わされたようになって、茫然とその絵を眺めていた。

     二
 この絵のおかげで、ドイツ語の先生のところへ行く往復《ゆきかえり》が、一層楽しいものになった。
 その絵の前に立つと、魔法の世界でも眺めているような、なんともいえぬ奇妙な感じがひき起こされ、催眠術にでもかけられたように、ぼんやりした眠気《ねむけ》に襲われる。
 それにしても、少女の横顔をながめている青年の眼差しの、なんと深いこと。春の海のようにゆったりとしていて、優しさと単純さに満ちている。二人の面《おも》ざしがよく似通っているから、たぶん、これは兄妹なのだろう。
 長椅子のうしろに立っている青年は、この絵をかいた画家の自画像なのに違いない。しっとりとしたこの部屋のなかで繰り返される兄と妹のやさしげな日常が、香気《こうき》のように画面のなかに漂っているのである。
 この画面にあらわれているのは、二人の生活のほんの一部分でしかないが、ただこれだけで、この二人が、互いにどんな信頼し合い、愛し合っているかよくわかる。この二つの顔のなかには、意地悪や、憎しみのかげなどは露ほどもなく、正直と、愛情と、親切だけが輝いているように見える。
 キャラコさんは、いい友達を沢山持っている。イヴォンヌさんにしろ、従姉妹《いとこ》の槇子《まきこ》や麻耶子《まやこ》にしろ、日本女学園のやんちゃな五人組。……また、叔父の秋作や立上《たてがみ》氏。いま、ちょっとした過失の贖罪《しょくざい》をしているあの気の弱い佐伯氏。丹沢山《たんざわやま》で会った篤実《とくじつ》な四人の学者たち。それから、小《ち》っちゃなボクさん。
 みな、心のやさしい、親切な人たちばかりだが、どうしてかしら、この絵の青年にたいするような、溺れるようなふしぎな愛情や憧憬《どうけい》をいちども感じたことはなかった。
「ほんとうに妙だわね。……いったい、どうしたというのかしら」
 ともかく、その絵の前に立つと、理窟なしに心が弾《はず》んで来てどうすることもできない。自分でも、すこし妙だと思うけれど、ひとりでに顔が笑い出して、
「こんにちは、ごきげんいかが?」
 と、われともなく、つぶやいてしまう。
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