よく似ている。夢だったのか、事実だったのか、その辺のところが、どうも、はっきりしない。
 また、それが事実だったとしても、そこで、どんなことが起きたのか、この青年をどんなふうに好きだったのか、まるっきり記憶に残っていないのである。
 それにしても、イヴォンヌさんは、確かにいい当てた。
 どうかすると、どうしても飾窓の前から離れられないような気がすることがある。左内坂の近くへくると、ひどく胸が躍《おど》って、思うように歩かれない。心では、飛んで行きたいほどに思うのだが、足のほうがいうことをきかない。
「おやおや、たいへんだ」
 なんとかして笑ってみようとする。ところが、思うように、うまく笑えないのである。
 じっさい、こんな感情に襲われたのは、生まれてから、これが最初の経験だった。
 キャラコさんは、寝台のうえにそっと身体を起こす。窓に月の光が射し、白膠木《ぬるで》の梢《こずえ》が墨絵のように揺《ゆ》れている。
 キャラコさんは、溜息をつく。
「これはたしかに厄介な感情ね。こんなものがあたしのところまで押し寄せて来ようとは思わなかったわ」
 閉口して、両手でゴシャゴシャと髪を掻《か》き廻しながら、長い間なにか考えていた。そのうちに、決心がついたように威勢よく寝台から飛び降りると、卓上電灯《スタンド》をつけて手紙を書きだした。

 イヴォンヌさん。あたしは、たしかに、あの油絵の青年に心をひかれています。
 あたしがこんな感情をもった以上、放って置くわけにはゆきませんから、あすの朝、あのひとのところへ行って、きっぱりとカタをつけて来るつもりなの。どうぞ、賛成して、ちょうだい。あのひとが、あたしを嫌いだったらしようがないけど、もし、好いてくれたら万歳ね!
 この結果は、あすの晩、電話でお知らせしますわ。

     三
 次の日の正午《ひる》ごろ、キャラコさんは、雪ヶ谷から石川台へ抜ける切通しを歩いていた。
 両側は雑木林をのせた低い岡で、そこで漆《うるし》の葉が薄紅く染っていた。
 気が向くと、底の平ったい靴をはいて、ひとりで気ままにあちらこちらとあるきまわるので、キャラコさんは武蔵野の岡や小径をよく知っている。
 油絵の遠景のような丸味のある台地は、武蔵野の西南のほうに多いのだから、根気よくこの辺を歩き廻っているうちに、それらしいのに行き当るだろうとかんがえて、あてもなしにのんびりと歩きつづけていた。
 はっきりとはわからないが、心をひそませてじっくりと記憶をたどると、雁来紅《はげいとう》の家へ行く道筋が、おぼろげに心に浮んでくる。
 赤土の崖道をしばらく歩いて行くと、そのうちに、小さな流れに行きあたる。……その土橋をわたると、枳殻《からたち》の長い垣根が始まって、道がすこし登りになりながら、雑木林の中へ入り込んで行く。……雑木林を出ると、急に眼の前がひらけ、ゆるい丘の中腹ほどのところにその家がある……。

 キャラコさんは、切通しの途中に立ちどまって、右左を見廻す。……どうも、この道もいちど通ったことがあるような気がする。雑木林のようすも、赤土の崖のいろも、ぼんやりと心の網膜にしみついている。
「……もしか、この道だとすると、ここを降り切ると、小川の小さな土橋のそばへ出るはずなんだけど……」
 十分ほど歩くと、道が大きくカーヴして、とつぜん、向うに小川が見え出した。
「川がある!」
 なぜか、不思議な気持も、恐ろしい感じも起きない。
 キャラコさんは、頓着しないでズンズン歩いて行った。この道にさえついて行けば、間もなく油絵の中の家に着くはずだった。
 ……そして、あの青年が絵のままのようすでそこに住んでいる……。キャラコさんは、それを少しも疑わない。境遇としてはずいぶん奇抜なのだが、それが一向|訝《いぶ》かしく思わないのが、むしろ不思議なくらいである。
 ただ、現実と非現実の境目ぐらいのところを歩いているような、妙にたよりのない気持がする。ひょっとすると、油絵の風景の中へ紛れ込んで来たのではなかろうか。自分がいま歩いているのは現実の世界ではなくて、額椽の中の幻想の世界なのではないかといったような、とりとめのない不安を感じる。
 ところで、土橋を渡ると、果して、枳殻《からたち》の垣根が始まった。
 それから、雑木林を抜ける。……真向いの、なだらかな丘の斜面に、バンガロオふうの建物が側面に夕陽を浴びて、一種、寂然《せきぜん》たるようすで立っていた。
 キャラコさんは、満足そうな声を、だす。
「ほら、ちゃんとあったわ!」
 心がはずんで、唄でもうたい出したいような気持になってきた。早く門のところまで行き着きたくなって、口を結んで、せっせと歩きだす。
 下で見たよりも、しっかりした建物で、蔦《つた》のからんだ雅致のある石門がついている。
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