ところが、どうしたわけか、この石の門にはすこしも見覚えがない。門のそばから、灌木の植込みについた砂利の小径が、ひっそりと玄関のほうへ続いている。……この小径も、すこしも記憶に残っていなかった。
 キャラコさんは、すこし怖気《おじけ》がついてきた。自分が、いま、やりかけていることは、途方もなく突飛《とっぴ》なことのように思われだして来た。
 キャラコさんは、気持を落ちつけるつもりで深呼吸してみる。案外、効果があった。なにはともあれ、わざわざここまでやって来て、こんなことくらいにへこたれて、このままひき返すわけにはゆかない。
 キャラコさんは、玄関のところまで歩いて行って、呼鈴を押した。ベルが思いがけなく近いところでえらい音を立てて鳴ったので、びっくりして逃げ足になった。元気を出しているつもりなのだけれど、なんとなく魂がしっかりとすわらない。勢い、自信のない顔つきになる。負けまいと思って、例の、すこし大きすぎる口を結んで頑張りつづける。
 玄関の扉《と》が、内側から無造作に引きあけられて、よく釣り合いのとれた、背《せい》の高い、三十五、六の青年が屈託のないようすで現われて来た。
 油絵の青年だった!
 絵のなかの顔とすこしも違っていない。落ち着いた深いまなざしも、きっぱりとした顎の線も、翳《かげ》のない広い額も、なにもかもそのままで、誇張していうなら、絵の中の青年が、容積《ディマンシオン》を変えてここへ出て来たかと思われたほどだった。ただ違うところは、顎に青髭《あおひげ》があることと、天鵞絨《びろうど》の黒い上衣のかわりに、絵具だらけの麻《あさ》の仕事着《ブルーズ》を着ているところだけだった。
 そのひとは、ほのかに眼もとを微笑《ほほえ》ませて、キャラコさんの顔を見かえしている。
 キャラコさんは、さっきからぼんやりとそのひとの顔を見上げていたのだった。ハッと気がついて、思わず真っ赤になってしまった。
 そのひとは、格別不思議そうな顔もしないで、扉口に立ったままになっている。
 キャラコさんは、へどもどしながらお辞儀をすると、死んだ気になって、切り出した。
「……突然ですが、すこし、お尋《たず》ねしたいことがあって、それでおうかがいしたのですけど……」
 そのひとは、ああ、と、鷹揚《おうよう》な返事をしただけで、のどかに笑っている。
 どんな冷たい心でも溶かしてしまうような、ひろい、おおまかな微笑である。
 キャラコさんは、やれやれ、と思う。ようやく、楽に口がきけるようになる。
「あなたは、もしかして、あたくしを知っていらっしゃるのではないでしょうか」
 そのひとは、元気のいい声で笑い出した。
「どうして、知らない訳があるもんですか。……君はね、むかし、僕をひどく手こずらしたことがあるんだよ。……覚ていないかも知れないが……」
 よく響く声でこういうと、無造作にキャラコさんの手をとって、
「それにしても、ずいぶん、綺麗になったもんだ! それに、立派な顔をしている」
 キャラコさんは、楽しすぎて、すこし茫《ぼう》となる。そのひとの掌は大きく温かくて、その手にとられていると、なんともいえない頼母《たのも》しさを感じる。
 いいたいことが、あれもこれもと沢山あって、なにからいい出していいかわからない。大あわてに狼狽《あわ》てたすえ、わけのわからないことを口走る。
「あなた、あたしがどうしてここへ来たか、ごぞんじ?」
 そのひとは、また笑った。
「知りませんね」
 キャラコさんは、ふうん、と鼻を鳴らす。
 西洋骨董店の飾窓で絵を見てから、ここへ辿《たど》りつくまでの、苦心や悩みをつぶさに訴えたいと思うのだが、どうもうまくいえそうもない。断念《あきら》めて、こんなふうにいう。
「あたし、これでも、ちょっと敏感なところがありますの。自分の記憶だけで、ここまでやって来ましたのよ。……むかし、一度ここへ来たことがあったってことは、あたしも薄々知っていましたの。でも、それがいつだったのか、ここで何をしたのか、まるっきり記憶に残っていませんの」
 そのひとは、玄関の石段にしゃがみながら、
「それは、とても大変だったんだよ。……もう、何年になるか、よく覚えていないけど、君が叔父さんというひとと、この辺へ遠足に来て、とつぜん、えらい熱を出して、わけがわからなくなってしまったんだ。……なにげなく、アトリエの窓から見おろすと、君の叔父さんが、あそこの木槿《ぼけ》のあたりで、君をかかかえてうろうろしている。……そのころ、この辺には、僕の家だけしかなかったもんだから、かまわないから、って、そういってね、僕ンところへ入ってもらって、医者が来るまで、井戸水を汲《く》んじゃ君の頭を冷やしていたんだ。……叔父さんというひとは医者を迎えに行ったきりなかなか帰って来ない
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