し、こっちは、ひどく情けなくなって、君を抱いて家のなかを訳もなく歩きまわっていたんだ。そうでもしなくちゃ、心細くて、とてもやりきれなかったんだ」
 美しい音楽でも聞いているようで、キャラコさんは、思わず、うっとりとなる。あの絵を見た瞬間、自分の心になんともつかぬ不思議な感じがひき起こされたのは、決して理由のないことではなかった。
「……そのうちに、ようやく医者がやって来たが、君は、どうしても僕の腕から離れようとしないんだ。……寝台へ寝かそうとすると、えらい声で泣き出す、しようがないから、ずッと抱きつづけていて、朝になってから、テクテクと一里ちかくも歩いて病院まで連れて行った。……なにしろ、ひどく手こずらしたもんだよ。僕の胸へぎゅッと顔をおッつけて、なんといっても離れないんだからね……」
 そのひとは、ひやかすように、キャラコさんの顔をのぞき込んでから、
「この胸ンとこに、いまでも、君の顔型《かおがた》が残っているかも知れないよ」
 このひとの深い心が、その時も、自分をうったのにちがいない。今の自分の感情にひきくらべて、それが、よくわかるのである。自分は、それと気がつかずに、長い間、このひとの親切に感謝しつづけていたのだと思った。



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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