《はっか》入りの、清《すが》すがしい朝の海風《うみかぜ》が吹き込んでくる。
 白い紗《しゃ》の窓掛けを蝶のようにひらひらさせ、花瓶のダリヤの花をひとゆすり、帆前船《ほまえせん》の油絵の額《がく》をちょっとガタつかせ、妖精が戯《たわむ》れてでもいるように大はしゃぎで部屋の中をひと廻りすると、反対の窓からスット抜けて行ってしまう。
 絵の上手なトクさんも、陽気なピロちゃんも、男の子の鮎子さんも、誰も彼も、あわてふためいて、御飯をかっこんでいる。
 お味噌汁《みおつけ》は熱くてすぐ飲めないから、早く冷《さ》めるようにお椀《わん》に盛ったまま、ずらりと窓際に並べておく。御飯をかっこんだら、出がけに、立ったままで、ぐいと一息にやるつもりなのである。
 誰もものをいわない。鮎子さんだけは、みんなのように早くかっ込めないので、肚《はら》を立てて何かひとりでぶつぶついっていたが、いよいよ置いてゆかれそうになったので、御飯に水をかけてひっかき廻す。ピロちゃんもまねしてやり出す。誰も彼も大あわてだ。
 いったい、何を泡喰《あわく》っているというんです? あわてずにはいられない。海が逃げてゆく。
 絵の上手なトクさんが、
「一《いち》ィ」
 と、いって、立ちあがる。窓際へ駆けて行って、味噌汁をひと息に飲みほす。
「はい、すみました。……鮎子さんも、ピロちゃんも、芳衛さんも、いつまで食べてるの? いやァね」
 男の子の鮎子さんが、口惜《くや》しがって、茶碗の底に御飯をのこしたまま、
「二《に》ィ」
 と、立ちあがる。
 芳衛さんが、すぐ、それを見つける。
「ずるいぞ。……卑劣ですよ、あなた」
 鮎子さんは、半《はん》べそをかいて、また食卓へ坐る。その間《ま》に陽気なピロちゃんが、
「二《に》ィ」
 と、立ちあがる。
 めいめい茶碗と箸を持ってお勝手へ馳け込む。
 手早く茶碗を洗ってキチンと食器棚の中へ並べる。食卓の上を大きな羽箒《はぼうき》でサッとひと撫《な》で。どこにもご飯つぶなんかこぼれていない。それがすむと、キチンと窓際に整列する。
 右へならえ! 番号!……一、二、三、四。
 東京駅でヒットラー・ユーゲントの一行を見てから、鮎子さんたちの組に、いつの間にかそんな気風が乗り移ってしまった。
 規律。質素。服従。団体精神。――こういう新しい感覚が、きゅっと皆の心をつかんで、にっちもさっちもゆかないようにしてしまった。この休暇ちゅう、規律正しい生活をしようと申し合わせたのである。

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規律。――六時起床、九時就寝。御飯は必ず三杯食べること。四杯食べたい時は、唾《つば》を呑み込んでおく。
服従。――これは、キャラコさんが来てから。
質素。――観念上の問題。形《かたち》より心のほうを重く見ること。(例。――上等のお菓子でも不味《まず》そうに食べること)
団体精神。――一致協力して敵に当ること。
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 朝御飯を無理やり三杯おし込むのも、窓際に整列するのも、みな青年隊《ユーゲント》の精神に即したことで、なかんずく、浮筏《ラドオ》でほかの組の女の子を沈めにかけるのは、その最も偉大な発露《はつろ》なのである。
 規律・規律・規律!
 どっちみち悪い気風ではない。それこそ、薄荷《はっか》入りの海風《うみかぜ》のようなすがすがしいものが、皆の心に吹き込んで、胸をいっぱいに膨《ふく》らせる。四人ながら、みな、この新しい生活形態に満足して、時には感激のあまり涙をこぼしそうになる。
 服装の点検が終ると、一列縦隊に隊伍《たいご》を組み、足並みそろえ、れいの行礼歩調というやつで、岡から浜のほうへ降りて行く。ヒットラーの観兵式をニュース映画でごらんになったことがおありでしょう。……長靴をはいた兵隊さんが、膝の関節をまげずに、爪先でじぶんの額を蹴《け》あげるようにしながら行進する、あの奇抜な歩調で。
 ところで、この示威運動《デモンストレーション》はあまり民衆の支持を得ない。四人の質実な精神は理解されないのである。低俗な民衆の眼には、どうも、すこし素頓狂《すっとんきょう》に見えるらしい。
 砂浜で寝転んでいる赤銅《しゃくどう》色の青年たちが、気色を悪くして聞えよがしに叫ぶ。
「おうい、見ろみろ、また気狂いどもがやって来やがった。なんでェ、あの脚《あし》つきは。あいつら、頭の加減でも悪いんじゃないのか」
 俗説に耳を藉《か》すな。そんなことでへこたれるには及ばない。新しい行動にはいつも迫害を伴うにきまっている。
 キッと口を結んで、穴のあかんばかり、まっすぐに海を瞶めたまま、えらい混雑の中を神憑《かみがか》りのような足どりで波打ち際まで行進する。
 そこで、お次ぎは団体精神の発動にうつる。
 敵軍はいないか。向ってくるやつはいないか
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