。広い渚をゆっくりと眺めわたす。あまり、平和な眼付きではない。
 陽気なピロちゃんは、すこし注意散漫の傾向がある。ほかの三人が熱心に団体精神の予備行動を始めているのに、ピロちゃんだけは、ぼんやり沖のほうを眺めながら、こんなふうにつぶやく。
「あら、また、あのヨットがいるわ」
 鮎子さんが、釣り込まれる。
「ほんとだ。どうして、毎朝おなじところにじっとしているんだろう、妙だな」
 トクさんが、かんたんに片付ける。
「釣りでもしてるのさ」
 鮎子さんが、ふうん、と鼻を鳴らす。
「へえ、あんな沖で釣りをするのかい? あそこは海流からはずれているから、魚なんかいるはずはないんだ」
 ピロちゃんが、同意した。
「あたしもそう思う。魚なんか釣ってるんじゃないわ」
 トクさんが、ききかえす。
「じゃ、何してるの?」
 鮎子さんが、口を尖《とが》らす。
「何をしてるかわからないから、それで妙だというんじゃないか」
 右手に、三浦半島のゆるい丘陵がつづいている。その遠い遠い沖合いに、一風変わった赤い帆のヨットが浮んでいる。原色版のナポリの風景などでよく見る『ファルファラ』という、蝶々のような恰好の帆をもった、この辺ではあまり見かけないヨットである。
 この風変りなヨットは、きまった時間にどこからかやって来て、江の島の聖天島《しょうてんじま》と稲村《いなむら》ヶ崎を底辺にする、正三角形の頂点で錨《いかり》をおろし、二時間ほどそこに停っていて、それからまたどこかへ行ってしまう。
 毎朝、十時から十一時半ぐらいまでの間、きまってこれが繰り返される。ひめじ釣りにしては時間がおそすぎるし、鮎子さんのいう通り水脈筋《みおすじ》からもはずれている。いったいどんな目的で毎朝きまった時間に、きまったところに停まっているのか、それがわからない。このヨットを見かけるようになってから、これで五日になる。
 芳衛さんが、結論をつける。これを倫理の先生の口まねでやってのける。
「……たぶん、海岸のザワザワした雰囲気が、諸君を刺激して、いささか神経質にしているんだと思います。……とにかく、諸君はあまり懐疑的です。……ことに、鮎子さんのごときは、何を見ても、怪しいとか、奇妙だとかいわれるが、鮎子さんが懐疑を持ったものをよく調べて見ると、怪《あや》しかったり奇妙だったりしたことはただの一度もないのです。……よろしいか。要するに、あれは一|艘《そう》のヨットでしかない。毎朝、きまった時間にやって来て、きまったところに停まっているヨットに過ぎない。……それが、どうしたというんです? 放ってお置きなさい。やりたいようにやらせようじゃないか。どっちみち、われわれには関係のないことです、エヘン」
 これには、みな、噴《ふ》きだしてしまう。
 あまり腹の皮を捩《よじ》ったので、ヨットのことなど忘れてしまう。
 三人のうちで、いちばんこだわっていた鮎子さんが、まっ先にザブンと水の中に飛び込んで、クロールで浮筏《ラドオ》のほうへ泳いで行く。
「やったな!」
 一斉に水の中に飛び込む。すさまじい競泳になる。
 陽気なピロちゃんが、鮎子さんの腹の下を潜《くぐ》り抜けて、筏のすぐそばで海豹《あざらし》のようにひょっくりと顔を出す。間髪をいれずにえらい水飛沫《みずしぶき》をあげながら、鮎子さんとトクさんが到着する。芳衛さんだけは途中で棄権して、ゆっくりと平泳《ブレスト》で泳いで来る。
 筏のまわりに、今日は一人も女の子がいない。浜じゅうのお嬢さんたちは、四人の青年隊《ユーゲント》に手ひどく沈めにかけられ、すっかり懲《こ》りて誰も寄りつかなくなってしまった。
 そこで、止むを得ず、四人だけで仲良く筏のうえに攀《よ》じ登る。
 空には、ひとひらの雲もない。海は紺碧の色をして、とろりと微睡《まどろ》んでいる。濡れた肌にほどよく海風《うみかぜ》が吹きつけ、思わずうっとりとなる。どうも、これは退屈だ。
 鮎子さんが、脾肉《ひにく》の歎《たん》をもらす。
「つまらない、誰かやって来ないかな」
 すこし離れたところで、麒麟《きりん》の浮嚢《うきぶくろ》で遊んでいる五六人のお嬢さんの組へ叫びかけて見る。
「おゥい、やって来いよゥ」
 お嬢さんたちは、聞えないふりをして、自分らだけできゃッきゃと騒いでいる。昨日《きのう》、四銃士にさんざ水を飲まされた連中だ。
 鮎子さんが、口惜《くや》しがって、ぶつぶついう。
「よゥし、あとでひどい眼にあわしてやる」
 この時である。注意散漫のピロちゃんが、また妙なものを見つけた。
「おや、ローリーさんが、あそこで妙なことをしている」
 なるほど、すこし妙だ。
 いつもは、ゆっくり過ぎるくらいゆっくり平泳《ブレスト》で泳いで来るのに、今日はどうしたというのか、まるで癇癪でも起こしたよう
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