い。すっかりこんがらかってしまって、そばへ来たやつを、誰かれかまわずとっ捕《つか》まえては沈めにかける。
誰も彼もみな、眼が塩ッ辛くなって、シバシバして開けていられない。咽喉《のど》の奥がからからになって、鼻の中がツンツンする。
そこで、休戦ということになる。筏につかまって、みなゲエゲエやる。いろんな苦情が起こる。
男の子の鮎子さんが、黒いお嬢さんをつかまえて、
「あんた、さっき、あたしの背中を拳骨でゴツンとやった」
と、抗議を申し込んでいる。
お嬢さんのほうも負けていない。
「あんたは、あたしの顎をいやというほど蹴っ飛ばしたわ」
と、やりかえす。
こちらでは、陽気なピロちゃんが、筏につかまったまま、絵の上手なトクさんと足で蹴合《けあ》いをしている。詩人の芳衛さんが、ニコニコ笑いながら、上品な傍観者の態度をとる。鮎子さんの背中をゴツンとやったのは、じつは芳衛さんなんだ。
遠い沖のほうから、ピカピカ光る金髪が、平泳《ブレスト》でゆっくりこちらへ泳いで来る。
毎朝、時間をきめて泳いでいるのだとみえて、たいてい昼すこし前に、沖から戻って来て、
「|お早よう《グッド・モオニング》、|お嬢っちゃん《リットル・ウィメン》」
と、挨拶しながら、浮筏《ラドオ》のそばを泳ぎ抜けてゆく。
皆の意見は、英国人だということに一致している。かくべつ根拠のあることではない。言葉使いが丁寧で、アクセントが綺麗だからという理由によるのである。年齢については、陽気なピロちゃんが、こんなふうに断定をくだした。
「あの英吉利《イギリス》人は、今年、二十七なのよ」
詩人の芳衛さんが、訊《き》きかえした。
「ふうん、どうして、二十七なの」
ピロちゃんで威厳をもってこたえる。
「どうしてってことはないさ。ワイズミュラーは今年二十七でしょう。だから、あの英吉利《イギリス》人も二十七でなくちゃならないんだ」
なるほど、ワイズミュラーによく似ている。映画に出てくるワイズミュラーのようにふやけた顔はしていないが、身体の釣り合いや、腕の長すぎるところなんか、たいへんよく似ている。いかにも若々《わかわか》しく、元気で、そのくせ、考え深そうな眼付きをしている。
それにしても、ずいぶん遠くから泳いで来るのだとみえて、浮筏《ラドオ》のそばを通り過ぎるころは、いつでもすこし疲れたようなようすをしている。元気な時は、挨拶をして、そのまま泳ぎ抜けて行くが、時には、十分ほど筏に片手をかけて息を入れて、それからまた岸へ向って泳いでゆくこともある。
「|有難う、お嬢さん《サンキュー・リットル・ウィメン》」
普通の挨拶のほかに、ヘップバーンが出てくる映画の『若草物語』の原作、オルコット夫人の有名な小説『四人姉妹《リットル・ウィメン》』にかけているのらしい。
なるほど、うまくいったもんだ。そういえば、もの静かな、すんなりした白い手がご自慢の長女のメグは詩人の芳衛さんに当るし、色が浅黒くて、きりっと身体のしまった男の子のようなジョーはいうまでもなく鮎子さん。内気《うちき》で音楽好きのベスは、陽気なピロちゃん。お姫様のように上品で、絵の好きな末娘のエーミーはトクべえさん。……まるで、ご註文のように、キチンとあてはまる
ところで、ピロちゃんも、鮎子さんも、トクさんも、(リットル)といわれることをあまり感じよく思っていない。
「あたしたちは、もうウィメンなんだぞ。ちゃんと一人前に扱ってくれえ」
絵の上手なトクさんが、ふんがいして、いった。
「あたしたちは、すくなくとも(リットル)なんかじゃないぞ。リットルなんていわれて、黙っているわけにはゆかないわ。……英語の『リットル』という言葉のなかには、たしかに、軽蔑する意味もあると思うんだ」
ピロちゃんが、大真面目《おおまじめ》に、うなずく。
「あたしも、そう思う。……あの英吉利《イギリス》人のやつ、たしかに、あたしたちを馬鹿にしているんだ」
黙って水浴着《マイヨオ》の裾を引っぱっていた芳衛さんが、すこし皮肉な調子でいった。
「ほんとうに、(リットル)ではいけないわねえ。……でも、お見受けするところ、どなたも、(グレート)とはいえないようだわ」
このひと言のために、筏の上は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「芳べえのばかやろ。国民精神が稀薄だぞ!」
「ひとの真面目な議論をまぜ返すのはよくないです」
芳衛さんは、みなにやり込められて黙ってしまった。
一人前の淑女たちを『リットル・ウィメン』などと呼んだ仕返しに、ワイズミュラー君のことを『ローリーさん』と呼ぶことにした。小説では、『四人姉妹』の隣りに住んでいる、ローレンス家のちっちゃな坊やの名前である。
二
いっぱいに開け放した硝子扉《ケースメント》から、薄荷
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング