郎に深入りさせたのは、もちろん、あたしのあやまちにちがいありませんけれど、それは、あのころ、あたしの精神が稀薄《きはく》だったためで、どうにも止むを得なかったの。……好きでなければ結婚できないなんて無邪気なことはかんがえていませんけど、あたしにこんな転換が来てしまった以上、生活感情も生活態度もまるっきりちがうひとと結婚するなんてことは、どうしても考えられないから、この春、そのことをはっきりと悦二郎にうちあけましたの。……そのほうはよくわかってくれたけど、あたしがやった手紙は、なにかセンチメンタルなことをいって、どうしても返してくれないの」
「……でも、手紙ぐらい残しておいてはいけないの」
「くだらないと思うかも知れないけど、無意味にそんなものにこだわっているわけではないのよ。……あたし、ごく最近、劇団のあるひとと結婚するつもりなの。……だから、なにもかも、はっきり清算しておきたいの」
そういって、眼に見えないくらい顔を赧《あか》らめた。そのちょっとしたことに、偽わりのない愛の感情がよく現われていた。そういう素直なそぶりを見ると、キャラコさんの心に、むかしの友情が甦《よみがえ》ってきた。キャラコさんは、同感の微笑をして見せた。
緋娑子さんは、冷淡に眼を外《そ》らしながら、
「……そればかりではなく、あんな稚拙《ちせつ》な感傷をぶちまけた自分の手紙が、どこかに保存されていると思うだけで、いまのあたしの感情ではとても耐えられないことなの。おわかりになる?」
キャラコさんは、それには返事をしない。緋娑子さんは人生にたいして、たいへん我ままだと思う。失敗した自分の過去をいちいち拭い消せるものなら、誰にしたって、それは望ましいことであろうけれど……。キャラコさんが、たずねる。
「それで、あたしに、どうしろとおっしゃるの」
「手紙の束《たば》を持ち出して来ていただきたいの」
キャラコさんが、ききかえす。
「……つまり、盗むのね」
緋娑子さんは、わかりきったことを、といった顔つきで、自若《じじゃく》とこたえた。
「ええ、盗んで来て、ちょうだい」
「よくわかってもらって、持って来るのではいけませんの」
緋裟子さんは、冷笑をうかべながら、
「あなたのような同情屋さんに、そんなこと、できるかしら」
なるほど、それにちがいない。あんなにも緋娑子さんを愛していた悦二郎氏の手から、大切な思い出の一束をもぎ取ってくる自信はなかった。キャラコさんは、正直に自白した。
「できそうもないわ。……でも、盗みだすなんてことは……」
緋娑子さんは、グイと頭をうしろに引いて、威《おど》しつけるような声で、いった。
「四《し》の五《ご》のいう必要はないでしょう。あなたの近親のために、むかしの友達が迷惑をしているとしたら、それくらいのことをやってくださるのが当然よ。……手紙はね、書斎の書机《デスク》の向って右の上から二番目の抽斗《ひきだし》の中に空色のリボンでくくって入っています。鍵はかかっていませんわ。……ねえ、やってくださるでしょう、キャラコさん。さもないと、あたし終生あなたを軽蔑してよ」
キャラコさんは、すこし腹が立ってきた。こういう無意味な強制に屈服することはないのだが、相手をしているのがめんどうくさくなって、はっきりとうなずいた。
「やって見ますわ」
そして、心の中で、こんなふうに、つぶやいた。
(悦二郎氏にしたって、こんなくだらないひとの手紙なんか大切《だいじ》にとっとくことはないわ!)
二
たしかに葉山《はやま》にいらっしてるはずだと思って、安心してやって来たのに、
「ちょうど、きのう、お帰りになりまして……」
と、小間使いが、いう。
困ったことになったと思ったが、もう、引きかえすわけにはゆかなかった。
御母堂《ごぼどう》が、恰幅《かっぷく》のいい、大きな身体をゆするようにして、
「まあまあ」
と、叫びながら玄関へ走り出してきた。
「……、これは、ようこそ。珍らしいひとがひょっくりやって来たもんだ」
「おばさま、いつも、ご機嫌よくて」
御母堂は、顔じゅう笑みをくずして、
「うむうむ、挨拶などは、どうでもいい」
手をとらんばかりにして、
「さァさァ、どうかあがってちょうだい。……ご無沙汰ばかりしていますが、みなさん、おかわりはないの?……うむ、それはよかった。……きのう帰って来たとこでね、ちょうどいい折りだった」
上機嫌に、なにもかもいっしょくたに、ひとりでうけ答えしながら、庭に向いた風とおしのいい夏《なつ》座敷へ通すと、せっかちに手を鳴らして、
「おいおい、誰かいないのかい。早く、おしぼりを持っておいで」
走りこんできた女中に何かいいつける間《ま》も惜しそうに、
「葛子《くずこ》が帰って来たら、嬉《うれ》しがっ
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