の」
 急に堰《せき》が切れたようになって、緋裟子さんの言葉は美しい抑揚に乗って、とめどもなく流れ出す。
「……女学校時代のなまぬるい友情や感傷なんかは、人生にとって、たいして効用のあるものじゃありませんわ。現象的にいうと、ちょうど、麻疹《はしか》のようなものよ。どっちみち、いつまでも引きずりまわしているようなものじゃないわね。……お好きなら、あなたは、いつまでもそうしていらっしゃい。でも、あたしは、そういうおつきあいはごめんよ。タフさんなんて呼ぶのはよしてちょうだい」
 キャラコさんが、ぼんやりした声を、だす。
「ええ、よくわかりましたわ」
 機才に富んだ、ふだんのキャラコさんのようでもない。どうしたものか、きょうはまるっきり気勢があがらない。なにか、もっと気のきいたことをいいたいのだが、のっけからひどく圧倒されてしまったので、気怯《きおく》れがして、思うようなうまい言葉が舌について来ない。じぶんのいうことは、なにもかも平凡で、間がぬけていて、われながら気が滅入《めい》ってしまう。
 緋裟子さんは、つづけ打ちといった工合に、
「……うるさい思いをするのはいやだから、あらかじめお断わりして置きますけど、あたし、このごろ女学校時代の友達になど、ひとりも逢っていないの。悦二郎にも、中橋《なかばし》の家のひとたちにも……。だから、そのひとたちのことをあたしにおたずねになっても無駄よ。まるっきり、なにも知らないのですから。……あたしにとっては、女学校も、同級生も、少女期も、悦二郎も、なにもかも、みな(|しなびた花《フルウル・パッセ》)よ。……あたしには、現在、じぶんが没頭している世界以外に人生はないの」
 緋娑子さんが、小さな劇団へはいってなにかやっているということは、噂にきいて知っていた。緋裟子さんが、自分がすっかり変わってしまったというのは、どうやら、その辺のことを指すらしい。いままでは、謎《なぞ》のようなことばかりで、すっかり戸迷《とまど》ったが、そうとわかると、すこし楽な気持になってきた。
(それくらいのことなら、なにも、こんなに大袈裟《おおげさ》にいわなくても……)
「そうそう、あなた、どこかの劇団にいらっしゃるんですってね、面白いことがあって?」
 緋娑子さんの眼の中を、傷つけられた知識人の怒りといったようなものがチラと横切《よぎ》った。
「面白い?……ご期待にそえないで残念ですけれど、すくなくとも、あなたを面白がらせるようなことは何もありませんのよ、キャラコさん。……あたしたちの仲間には、たとえば、小道具係りのように、すこしもむくいられない仕事を、喰うや喰わずで黙々《もくもく》とやっているひともあります。……つまり、自分が、小さいながら文化の進歩に何かの寄与をしているのだという自覚があるからこそなのですわ。……あなたや、悦二郎などのいる個人的な世界とはだいぶちがうのよ」
 キャラコさんが、うっかり口を辷《すべ》らす。
「ちがっても、ちがわなくても関《かま》わないけど、そういう意味でなら、あたしにはあたしだけの自覚があるつもりよ。……あたしの自覚は、丈夫な子供を産んで、それを立派に育てることなの。これだって、ずいぶん地味な仕事じゃなくて?」
 つまらないことをいったと思ったが、もう、取りかえしがつかない。果して、緋娑子さんが、えらい勢いではねかえした。
「女性がみな、あなたのように動物化していいなら、はじめっから文化なんか必要なかったわけね。あなたのようなものの考え方こそ文化の敵なのよ。女性全体の恥辱だわ」
 だんだんむずかしくなりそうなので、キャラコさんは、あわてて兜《かぶと》をぬぐ。
「あたしのために、女性全体に迷惑をかけては申し訳がないわ。あたしだけは、特別なんだと思って、ちょうだい」
 緋娑子さんは、芝居がかった仕方で、西洋人のように肩をピクンとさせる。
「あたしもよ。……あたしも、きょう、あなたの古くさい観念論をうかがいに来たわけではないの。悦二郎や中橋とあたしの関係に、キッパリした結末をつけるために、あなたに、是非《ぜひ》一役買っていただこうと思って、それでやって、来たわけ」
 中橋というのは、叔母の沼間《ぬま》夫人の実家《さと》で、悦二郎氏はその家の三男である。
 伯父の秋作などの同期生だが、すこしばかり変人で、日本の野鳥の研究に没頭し、渡《わた》りや繁殖の状態を調べるために、春は富士の裾野《すその》、夏は蓼科《たでしな》という工合に、年じゅう小鳥のあとばかり追っかけてあるいている。
 二年ほど前に、軽井沢の落葉松《からまつ》の林の中でゆくりなく出逢ってから、どちらも急に好きになった。この結婚には、双方の家に異存がなかったので、いわゆる『半公式』のかたちになっていた。
「……たいして愛してもいないくせに、悦二
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