キャラコさん
ぬすびと
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)緋娑子《ひさこ》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)(|しなびた花《フルウル・パッセ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き片仮名ン、235−下−1]
−−
一
しばらくね、というかわりに、左手を気取ったようすで頬にあて、微笑しながら、黙って立っている。
玄関で緋娑子《ひさこ》さんを見たとき、キャラコさんは、思わず、
「おや!」
と、眼を見はった。
わずか一年ばかり逢わずにいるうちに、すっかり垢《あか》抜けがしてまるで別なひとのようだった。
がむしゃらで、野蛮で、喧嘩早くて、頬や襟あしに生毛《うぶげ》をモジャモジャさせながら、元気いっぱいに、しょっちゅう体操の教師などとやり合っていた『タフさん』。……これがこのひとだとはどうしても信じられない。
袖の短い、ハイ・ネックのジャージイの服を無造作に着こなし、ハンドバッグのかわりに、れいの、ヒットラー・ユーゲントの連中が持っていた、黒革の無骨な学生鞄《ブウフザック》を抱え、新劇の女優とでもいったような、たいへん、すっきりしたようすで立っている。
陽ざかりの日向葵《ひまわり》の花のような、どこにも翳《かげ》のない明るい顔だちは、以前とすこしも変わらないが、いったい、どんなお化粧の仕方をするのか、唇などはいかにも自然な色に塗られ、頬はしっとりと落ちついた新鮮な小麦色をしている。頬に手をあてるだけの、そんな、ちょっとしたしぐさの中にも、相手の眼を見はらせずにはおかないような洗練された『表情』があった。
キャラコさんは、呆気《あっけ》にとられてぼんやりながめていたが、急に気がついて、真っ赤になってしまう。
「ごめんなさい、タフさん。いつまでもそんなところへ立たせっぱなしで……。どうぞ、あがってちょうだい」
へどもどしながら、じぶんの部屋へ案内して、窓ぎわの椅子にかけさせると、しばらくね、とか、ほんとうによく来てくれたわね、などと思いつくかぎりのお愛想を並べたてる。
話の継穂《つぎほ》を探そうと夢中になりながら、
「それにしても、もう、どれくらいになるかしら。……犬も馬も、みな、あなたに逢いたがっているわ」
犬も馬も……。家じゅうのものがみな、というつもりだったのだ。
キャラコさんは、あわててやり直す。
「……ええと、家じゅうが、みなあなたに逢いたがっていますわ。……その後、悦二郎氏は、どうして?」
緋娑子さんは、子供でもあしらうように、微笑しながら軽くうなずくばかりで、キャラコさんの月並な挨拶などはてんで受けつけようともしない。美しい姿態《ポーズ》で椅子にかけて、ゆっくりと部屋の中を見廻している。
キャラコさんは、いよいよ浮かばれない気持になって、みっともなく舌をもつらせながら、
「ねえ、タフさん、悦二郎氏、……このごろ、また、忙しいのでしょう? よくお逢いになります?」
緋裟子さんは、返事をしない。そっぽを向いたまま、いやに語尾をはっきり響かせながら、つぶやくように、いうのである。
「……白い壁、……鉄の寝台、……窓の外の白膠木《ぬるで》……。なにもかも、むかしのままね。ちっとも変わらない。……ふしぎな気がする。……遠い遠いむかしにひき戻されたようで……」
どこか、翻訳劇のセリフの調子に似ている。
緋娑子さんが、この前に遊びに来たのは、去年の暮れごろのことだったから、むかしといったって、まだ、半年そこそこにしかならないが、緋娑子さんの咏歎《えいたん》をきいていると、それが、『昔々、あるところに』の、あの『大昔』のようにきこえる。
なにしろ、かさねがさねなので、キャラコさんは、すっかり度胆をぬかれてしまって、
「タフさん、あなた、去年の暮れに遊びにいらしたこと忘れていらっしゃるんじゃないこと?……ええ、そうよ、寝台も白膠木でもむかしのままよ。半年ぐらいでそんなに変わるわけもないでしょう」
「そうね、ちっとも変わらないわ。……あんたも、……この部屋も……」
かすかに、軽蔑をこめた微笑を浮べながら、
「……結構ね、ほんとうに結構だわ。……でも、あたしのほうはすっかり変わってしまったのよ。……すくなくとも、タフさんなんてもんじゃないの」
おどろいて、キャラコさんが、ききかえす。
「タフさんでなくて、じゃ、なんなの?」
緋娑子さんは、やり切れないというふうに、露骨に眉をひそめて、
「あたし、緋裟子よ。……それも、まるっきり、あなたなんかご存知のない緋裟子なの。……だから、もう、タフさんなんて呼ばれるわけはないと思う
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