正午《ひる》といえば、あなた、午食《ひる》はまだなんだろう? ……さて、なにを、ご馳走しようか。昨日《きのう》帰ったばかりだから、碌《ろく》なこともできまいけど……」
どう饗応《もてな》そうかと焦《あせ》るように、しきりに首をひねってから、
「そうそう、いいものがある。信州から風味なものが届いているから、あれをご馳走しよう。待っていてちょうだい、すぐだから」
キャラコさんは、閉口して、手を合わせんばかりに、
「おばさま、もう、どうぞ。……あたしなら、結構ですから」
「おや、生意気。……お辞退《じぎ》をすることを覚えたのかい。……まあ、ちょっと、待っていなさい」
そういって、身体をゆすりながら、小走りに勝手のほうへ行ってしまった。
キャラコさんの身近で、なにか、たいへんなことが始まりかけている。この邸《やしき》の中の空気がただならぬ動揺をはじめた。
この座敷は母堂の居間で、お勝手に近いので、忙《せわ》しく指図《さしず》をしている母堂の声や、それに答える女中たちの声、あわただしく走り廻る足音や、何か重いものをドスンと落す音、賑《にぎ》やかな笑い声やシュウ、シュウ水を流す音などが雑然といり交ってここまで響いてくる。
キャラコさんは、物怯《ものおじ》したような顔で、広い座敷の真ん中にぽつねんと坐っている。靴下をへだてて藺草《いぐさ》の座布団の冷たさがひやりと膚に迫る。それがまた、なんとなく落ち着かない思いをさせる。
床《とこ》の間《ま》に、瓢斎《ひょうさい》の竹籠に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《い》けた黄色い夏《なつ》薔薇がある。
小さな声で、
「まあ、きれいだこと」
と、いって見る。
ところで、キャラコさんの本心は、綺麗だともなんとも思っているわけではない。視線はたしかに薔薇の上をうろついているが、心はただひとつのことばかり考えている。自分の手が書机《デスク》の抽斗《ひきだし》にかかる気の遠くなるような瞬間のことを。
ムズムズする感覚や、えたいの知れないこそばゆさが、背筋を這《は》い廻ったり、喉の奥を締めつけたりする。知らない野道で日が暮れたような、この広い世界でたったひとりぼっちになってしまったような、なんとも手頼《たより》ない気持である。途中の電車の中のような元気はどうしても湧いて来ない。
人間には、誰でも一度はこんな助からない気持になることがあるものだ。なんということはないが、身体じゅうから力がぬけて、手も足も出ないような工合になってしまう。いまのキャラコさんが、ちょうど、それである。
ここへ来るまでは、わけのないことのようにかんがえていたが、さて、いよいよ乗り込んで来て見ると、どうして、どうして、わけなしだなんてわけには行かない。庭下駄《にわげた》をはいて、三十歩も歩けば行かれる離屋《はなれ》の書斎が、雲煙万里《うんえんばんり》の向うにあるような気がする。ちょっと駆け出して行けば、ものの三分ぐらいですんでしまうことなのに、なんとも億劫《おっくう》で、どうしても腰をあげる気にはなれない。腰どころではない。眼さえも庭のほうへは向きたがらない。なるだけ、そのほうを見ないようにしている。
もう一人のキャラコさんが、焦《じ》れったがって、さいそくする。
――さァ、今がチャンスだ。早く行きなさい。
べつのキャラコさんが、弱々しい声で、こたえる。
――もうすこし、あとで。
もう一人のキャラコさんが、舌打ちする。
――あとなんていってると、チャンスをなくしてしまうぞ。おばさまが帰って来ないうちに、早くやっつけろ!
べつのキャラコさんが、いやいや、をする。
――そんなふうに、コソコソやるのは、いや。
――コソコソでなければ、どんなふうにやるつもりだ?
――もっと、堂々とやる。
もう一人のキャラコさんが、とうとう癇癪をおこす。
――くだらないことをいうな。そんなことをいって、結局やらないつもりじゃないのか?
べつのキャラコさんが、情けない声を、だす。
――やるにはやるけれど、いま、気が乗らないから、いや。
――じゃ、いつになったら、やるつもりだ。
――御飯を食べてから。
せめて、母堂でもいてくれれば助かると思うのに、なかなか戻って来ない。何をしてるのかと思ってお勝手へ行って見ると、母堂は両肌脱《もろはだぬ》ぎになって、一生懸命に蕎麦《そば》を打っていた。
キャラコさんは、やるせなくなって、壁にもたれて眼をつぶった。
三
何ものも、母堂の上機嫌を損《そこな》うものがなかった。
いわんや、キャラコさんは、むやみに食べる。最後の一杯などは、もう、死んでもいいと思って、喉の奥へ送り込んだ。
あまりたくさん詰め込んだので、頭の奥のほ
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