高つかんで、キャラコさんのほうへ、不気味に身体を乗り出すと、
「ねえ、キャラコさん。あなた、さっき門をあけた爺《じじい》を見た? ……あいつ、いま天然痘にかかっているのよ。真症《ヴァリオラ》なの、ちょうど膿疱《のうほう》期だから危ないわね。あなたのようなお嬢さんがだい好きだから、抱きつくかも知れないわ」
 そして、勝ちほこったように、高笑いをした。

     九
 夜があけかかっていた。
 キャラコさんは、もう、すっかり落ちついていた。
 保羅が、新聞社へ原稿を送ってあるというのは本当だとしても、その方法はたいして成功しそうもなかった。信用のある新聞は、そんなことぐらいでたやすく動かされるはずはないし、ちょっと調査をしただけで、保羅の悪計だということをすぐ見ぬいてしまうだろう。
 また、自分にしても、赤新聞が書き立てる醜聞《スキャンダル》を恐れなければならないような弱いところはすこしもなかった。
 もともと、世間の評判などは、それほど価値のあるものだと思っていないし、そんなものぐらいで自分の価値が左右されるとも考えない。書きたてたければ、書き立てたって一向差し支えのないことだった。
 しかし、そうだといって、いたずらに笑殺してしまうようなことは、あまり聡明なやり方だとは思われない。そんな意識の低いことではなく、二人の心をなだめ、充分にお互いの気持がわかり合えるようにしなくてはならないとかんがえていた。たぶん、それがいちばんいい方法なのであろうが、すっかりひねくれている二人の気持をどんなふうにしてやわらげたらいいのか、そのあてはなかった。
 キャラコさんは、長椅子《ディヴァン》から身体を起こすと、足音を忍ばせながら、そっとレエヌさんの部屋をのぞきに行った。
 頬のあたりに刺々《とげとげ》しいものがあるが、それを除くと、平和といってもいいようなおだやかな顔でしずかな寝息をたてていた。
 これが、ゆうべ、あんな邪慳な口をきいたそのひとだとは、どうしても思えない。むかし、桜の花の散る校庭で、ひとり離れてしずかに読書をしていた、優しい礼奴《れいぬ》さんのようすが眼にうかぶ。あの時とすこしもちがわない顔だった。
 近寄ってそっと、額に手をあてて見ると、かなりひどい熱だった。頬がポッと桜色になり、うっすらと汗をかいている。息をするたびに、どこかがピイピイと木枯《こがらし》のよ
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