る音なの。……キャラコさん、あなた、もうここから帰れないのよ」
 と、叫び立てると、邪悪な喜びを隠し切れないといったふうに、また火のついたように笑いだした。
 キャラコさんは、なだめるような口調で、いった。
「こんな嵐では、どっちみち、泊めていただくほかはないわ。……あれは、保羅さんが、鎧扉が飛ばないようになんかやっている音よ。おどかそうたってだめ」
 レエヌは、ふん、とせせら笑うと、病人とは思えないようなドスのきいた声で、
「善人は善人らしいのんきなことをいってるわね。……おどかしなもんか、本当だイ。……要するに、あんたは、あたしたちの餌食になるのさ。べつに、どうってことはありゃしない」
 キャラコさんは、あっけにとられて、
「ね、どうしたのよ、レエヌさん。……すると、自殺しそこねたというのは、嘘だったのね」
「ヘッ、ばか! ……あたいの頭をごらん。どうかなっているかい?」
 まるで、手に負えないのだった。
「……では、あのお手紙も……」
 レエヌは、ニヤリと笑って、
「あんな手紙、だれが本気で書くもんですか。小説の焼き直しよ。……ほら、これが種本《たねほん》さ」
 といいながら、枕元から薄っぺらな仏蘭西《フランス》語の本をとりあげると、肩ごしにキャラコさんの膝の上に投げてよこした。
 Marcel Proust "La confession d'une jeune fille"(マルセル・プルウスト『少女の懺悔《ざんげ》文』)という標題がついていた。最初の頁《ページ》のはじめのところに、乱暴にグイグイと赤鉛筆で線がひいてある。
 キャラコさんが、たどりたどり読んで見ると、さっきの手紙と同じ書き出しがあった。

[#ここから3字下げ]
……ようやく、解放の時が近づきつつあります。あたくしは、たぶん不器用にやったのです。引き金のひきかたが……
[#ここで字下げ終わり]

 この最初の二行を使って、あとはいい加減に書きそえたものだった。
 レエヌは、上眼づかいでジロジロとキャラコさんの顔を見上げていたが、唇のはしを妙なふうに歪《ゆが》めて、
「どう。感動した? ……と、すると、プルウスト氏にお礼をいっていいわけね」
 キャラコさんは、しずかにレエヌさんの顔を見かえす。病気でながらく床についていたこの気の毒なひとは、小説を読んで、想像の中でさまざまに自分の境遇を変えて気晴
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