なかった。
アマンドさんは、さすがに困ったような顔をしながら、
「ああ、せめて、そうでもいってくだされば、すこしは気持が楽になります。楽しくしていただこうと思ったのに、反対な結果になってしまいましたが、まあ、どうかゆるしてください。……レエヌは、けさくらいうちに快遊船《ヨット》を降りてゆきました。あれにはあれの考えがあるのでしょうから、しばらく、したいようにして見るのもいいだろう。あれは、たしかに一種の病人《マラード》なんだから、お腹《はら》もたったことでしょうが、かんべんしてやってください。……つまらぬ事ばかり多かったうちで、あなたのような優しいお嬢さんにお目にかかれたことが、こんどの航海の、ただひとつの楽しい出来事になりました」
聖画の中の聖人のような素朴な顔を笑みくずしながら、
「ねえ、キャラコさん、……このわたしが、……こんな白髪頭《しらがあたま》の老人が、お世辞をいうとは、まさかおかんがえにはならないでしょう。わたしは、ほんとうの気持を告解《コンフェッセ》しているんですよ」
そういって、温い大きな手で、キャラコさんの手をしっかりとにぎった。
いよいよランチが出るというときになると、エステル夫人もベットオさんも、さすがに名残りが惜しいらしく、キャラコさんの手をつかんでなかなか離そうとしなかった。エステル夫人が、キャラコさんの頬に接吻して、
「これは、お詫びのしるしです」
と、正直なことをいった。
ランチが、五|間《けん》ばかり快遊船《ヨット》から離れた。
イヴォンヌさんが、元気のいい声で、
「さよなら、さよなら」
と、怒鳴った。
そのころになって、ピエールさんがあわてたように舷側《げんそく》へ出てきた。複雑な表情をしながらなにかひと言叫んだが、イヴォンヌさんの声に消されて、キャラコさんの耳には届かなかった。キャラコさんは、ピエールさんのほうへ手をあげて挨拶した。ピエールさんは、気がぬけたように無意味に手を振っていた。
六
快遊船《ヨット》を降りて半月ばかりのちの夕立ち模様の夕方、キャラコさんが部屋で本を読んでいると、
「お若い男の方が、お嬢さまにと、おっしゃって玄関でお待ちになっていらっしゃいます」
と、女中がいいに来た。
玄関へ出て見ると、混血児《あいのこ》らしい顔をした廿五六の青年が、火のついた巻煙草をじだらくに口にく
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