んばかりじゃない。みんな、みんな、みんな、世界中の一人残らずが、みんな憎らしいんだ! どいつでもこいつでも、死ぬほど撲《ぶ》ってやりたい。……ぶってやる! ぶってやる!」
……いままで炎をあげていたレエヌさんの眼の中が、急に白くなったと思うと、のろのろと瞼《まぶた》を垂れ、くずれるように甲板に倒れて気を失ってしまった。
キャラコさんは、寝苦しい夜をあかした。夜あけごろ、半睡《はんすい》のぼんやりした夢の中で、レエヌさんにとった自分の態度を、後悔したり、肯定したり、組《く》んずほぐれつという工合にこねかえしていたが、あんな不当には負けていないほうが本当だという結論がついて、安心してぐっすりと眠ってしまった。
眼をさましたときは、もう八時半だった。あわてて飛び起きて身じまいをすると、電話で、イヴォンヌさんに宣言した。
「あたし、きょう、快遊船《ヨット》を降りるのよ。あなた、あたしのお伴《とも》なんだから、あなたも、まごまごしないで支度をなさい」
イヴォンヌさんが、電話の向うで、たまげたような声を、だす。
「降りるんですって? でも、あたし、まだねむっているのよ」
「ゆすぶって起こしなさい」
「じゃ、ゆすぶってやるわ。……よいしょ、よいしょ。……はい、眼をさましました。……いますぐなの?」
「ええ、いま、すぐ。……これは、命令よ、早くなさい」
「できるだけ、あわてます。……ねえ、キャラコさん、あたし、もう、こんな快遊船《ヨット》なんかいたいと思わないわ。アマンドさんにわるいけど……。あのアンファン・テリイブルはどうしたかしら。本当に快遊船《ヨット》を降りるつもりでしょうか」
「こらこら、なにを、ぐずぐずいっている。早くしなさいったら!」
「へいへい。すぐやりますですから、あまり、お叱りくださいませんように……」
イヴォンヌさんのほうが片づいたので、ひとつずつ船室《サルーン》の扉《ドア》をたたいて、今まで親切にしてもらったひとたちに愛想よく別れの挨拶をして廻った。
「ほんとうに、楽しい思いをしましたわ。もう、二度とこんなことはできそうもありませんから、それだけに、なんだか名残り惜しいような気がします」
うるさい気持の葛藤や、昨夜のレエヌさんの仕打ちを思い出さないようにすれば、この二週間の快遊船《ヨット》の生活はたしかに楽しかったので、キャラコさんの挨拶は嘘では
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