のもなくて、ひどく広々としている。
 キャラコさんは、船尾のほうまで歩いて行って、派手な日除《ひよけ》の下の揺椅子《ロッキンング・チェヤ》の中に沈み込んだ。
 膚にさわらぬほどの海風が、気持よくそっと襟《えり》のあたりを吹いてゆく。
 薄い月の光で、海の面《おもて》がぼんやりとけむり、古沼《ふるぬま》のようにはるばるとひろがっている。空には白い巻雲《まきぐも》がひとつ浮いていて、眼に見えぬくらいゆっくりと西のほうへ流れてゆく。
 キャラコさんは、揺椅子《ロッキング・チェヤ》の中でのびのびと身体をのばしながら、巻雲のゆくえを眼で追っているうちに、こんな無意味な感情の狭間《はざま》の中で当惑していなければならない自分の境遇をばからしくてたまらなくなってきた。
「……他人《ひと》の気持をいたわるのは大切なことだけど、そのために、じぶんの意志や感情まで投げ出してしまうのは、あまりほめた話ではないわね。……何より、女のやさしさと卑屈とをはきちがえないようにするこったわ。……アマンドさんを恐縮させるのはお気の毒だけど、できるだけ正直にこちらの気持をうちあけて、朝のうちに快遊船《ヨット》を降りてしまうことにしよう。……イヴォンヌさんや山田氏のほうは、あまり閉口させなくともすむように、なんとかうまくやれそうだわ」
 甲板《ウエル》の遠いはしのほうで、人の足音がする。
 振りかえって見ると、ピエールさんだった。寝巻《ピジャマ》の上へ大きなトレンチコートを着て煙草を喫いながらゆっくりとこっちへやってくる。煙草の火が海風に吹かれて線香花火のように散る。
 ピエールさんは、すこし離れたところで立ちどまって、ジッとこちらをながめていたが、びっくりしたような声で、
「キャラコさんですね?」
 と、いった。
 キャラコさんが、笑いだす。
「ええ、あたくし。……人魚じゃなくてよ」
 ピエールさんが、微笑しながら近づいてくる。
「人魚でなくてしあわせでしたよ。もし、人魚だったら、ベットオ先生につかまって遠慮なしに解剖されてしまうでしょう。……それにしても、どうして今ごろこんなところにいらっしゃるんです。珍らしいこってすね」
「あたしが詩人だってことをご存知なかったのね? ピエールさん」
 ピエールさんは、おおげさに驚いたという身振りをして、
「詩人! ……おお、それは存じませんでした。射撃の名人が詩
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