も軍人らしいいかついところがないので、キャラコさんは、この優雅《エレガント》な盲目の青年が名誉ある傷痍兵士だとは、まるっきり気がつかなかった。
そういえば、なるほど顔色は陽にやけて黒く、歩きぶりにもどこか軍隊式なところが残っている。肩も腰も頑丈で、この肉体がどんな刻苦《こっく》に耐えて来たか充分に察しられるが、全体の感じはどことなく弱々しく、挙動もたいへんに神経質だった。
黒い大きな眼鏡で顔が半分以上隠されているが、鼻も口もきりっとしまっていて、学者とでもいったような、奥深い、理智的な印象を与えるのに、声は低く細く、いつもふるえるような調子をおびていた。極めて理性的なものと、極めて感情的なものと、まるっきり矛盾した二つの性格がひとつの肉体の中におさまっているような感じだった。
佐伯氏の兄妹は五日ほど前の夕方ここへやってきた。宿のひとのはなしでは、佐伯氏はここへ点字の勉強に来たのだそうだった。まだ春が浅く、それにこんな淋しいところなので湯治《とうじ》の客もすくなく、静かに勉強するにはうってつけの場所だった。
佐伯氏は、茜《あかね》さんという、すごいような端麗《たんれい》な顔をした妹さんと二人で別棟《べつむね》の離屋《はなれ》を借り切って、二階と階下《した》に別れて住んでいる。
どちらも静かなひとたちで、ときどき、佐伯氏に本を読んできかせるらしい茜さんの澄んだきれいな声がきこえるほか、一日じゅう、ひっそりとくらしていて、部屋の障子《しょうじ》がひらかれることさえごくまれだった。
佐伯さんは、まいにち三時ごろになると散歩に出て、湖のそばでフリュートを吹く。まだ習いはじめだとみえ、とぎれとぎれで、なんとなく悲しげだった。茜さんのほうは、めったに部屋からも出て来ない。たまに廊下などですれ違うと、軽《かる》く目礼して、眼を伏せて急ぎ足で行ってしまう。不幸の重荷を背負っているような薄倖《はっこう》な感じのひとだった。
キャラコさんは、はじめての日、湖畔から宿のほうへ曲り込むわかれみちのところで佐伯氏に逢った。
佐伯氏は、道からそれた蘆《あし》の繁みの中へ踏み込んで、途方に暮れたようすで立っていた。
キャラコさんは、すぐ、眼の悪いひとなのだと気がついて、佐伯氏をていねいに道まで連れ戻し、そのままそろそろと宿のほうへ手をひいて行こうとすると、佐伯氏は、とつぜん、邪険
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