験をつみなさい。閣下も希望している。
つまらぬ財産をもらったばかりに、こんなよけいな苦労をしなくてはならぬことは、さてさてお前もふびんなやつだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]秋作
キャラコさんのほうは、財産を相続したことなどは、すっかり忘れていたといっても決して嘘にはならない。人形でももらうほどに気軽にもらってしまったが、それもなにか他人《ひと》のことのようで、自分が使うのだなどとは、今日まで、ただの一度も考えたことはなかった。
ところで、この手紙を読むと、四千万円という金が、とつぜん、ひどい重みで自分の肩にのしかかってくるような気がする。
あたしがあの四千万円を使う? 考えただけでも気が重くなる。なにしろ、キャラコさんは、いままで自分の手から二円以上の金を使ったことがないのに、それが、四千万円ということになると途方に暮れるほかはない。
キャラコさんは、思わずためいきをついた。
「たいへんだわ、死ぬまで、金をつかうことに、あくせくしなければならないとすると……」
金をもつことは、不幸のはじまりだということの意味がわかるような気がする。じじつ、あんな遺産などをもらわなければ、こんなところで肩身を狭くしていることもいらないし、世間へ金の使いみちを探しに出かけることもいらない。そう思うと、キャラコさんは、なんだか山本氏がうらめしくなってきた。
キャラコさんは、いつまでたってもうごかない浮木《うき》をながめながら、ぼんやりと考えしずんでいたが、ちいさなためいきをつくと、蘆《あし》を一本折り取って、それを鞭のように振りながら、湖尻《こじり》の疏水《そすい》のほうへ歩き出した。……今日こそ佐伯氏に例の話を切りだしてみようと思いながら。
二
佐伯氏は南京《ナンキン》の戦争で失明した名誉ある傷痍《しょうい》軍人である。
傷痍軍人といっても、衛戍《えいじゅ》病院にいるのではないから、あの白い病衣を着ているわけではない。背に帯のついたスマートな大外套《ガーズ・コート》を着て、アッシュのステッキをついて歩いている。
顎《あご》はいつもきれいに剃ってあるし、髪にはキチンと櫛目《くしめ》がはいっている。散歩に出ると、野の花を襟《えり》に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》したりして帰ってくる。どこに
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