キャラコさん
蘆と木笛
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)桟橋《さんばし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八|字髯《じひげ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
−−

     一
 風がまだ冷たいが、もう、すっかり春の気候で、湖水は青い空をうつして、ゆったりとくつろいでいる。
 キャラコさんは、むずかしい顔をして、遊覧船の桟橋《さんばし》で、釣りをするのを眺めている。すこしばかり機嫌が悪いのである。
 キャラコさんは、半月ほど前から、蘆《あし》の湖の近くの小さな温泉宿で、何ともつかぬとりとめのない日を送っている。本を読むか、日記をつけるか、散歩をするか、この三つのほかにすることがない。佐伯氏と話すことのほかは、なにもかもすっかり飽き飽きしてしまった。
 キャラコさんは、早く家へ帰って家事の手伝いをしたり、ピアノのおさらいをしたり、今までどおりキチンとした生活をしたいのだが、千万長者の相続人になったばかりに、窮屈な思いをしてこんなところに隠れていなくてはならない。本当の名を名乗ることさえできないのである。
 こんな淋しい山奥に年ごろの娘がたったひとりでのっそりしているのは、ずいぶん奇妙に見えるにちがいない。キャラコさんは女々《めめ》しいことはきらいだから、宿のひとたちにもいいわけがましいことはひと言もいわないが、かなり肩身の狭い思いをして暮らしている。
 キャラコさんに、父の長六閣下から、手紙で、当分のあいだ、家へ帰ることはまかりならぬと申し渡された。

[#ここから3字下げ]
……当分本名を名乗ることはならぬ。名前をいう必要がある時はキャラコとだけいいなさい。それから、当分の間、いっさい新聞雑誌を読んではならぬ。友人のところへ手紙を出してはならぬ。右、命令す。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]父

 ならぬ、ならぬ、ならぬ、――長六閣下の濶達《かったつ》な文字は、ひとつひとつ八|字髯《じひげ》をはやし、キッと口を結んでキャラコさんをにらみつけていた。
 青天のへきれきである。どういう理由でこんな眼に逢わなければな
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