てくだすったのですね?」
「…………」
「返事をしてくださらなくとも結構です。……あなたのような優しい方でなくて、誰れがあんなことをしてくれるでしょう。有難う、お嬢さん……」
 佐伯氏は、とつぜん、眼ざましいほどに昂奮して、
「ありがとう、ありがとう。……このありふれた言葉を、私が、いま、どんな深い感情で叫んでいるか、とてもあなたにはおわかりにならないでしょう。……しかし、いつか、それがおわかりになる時が来たら、あなたが、なんの気なしにしてくだすった親切が、ひとりの男の人生に、どんなたいへんな影響をあたえたか、きっと了解なさるでしょう。……これだけ言ったのでは、なんのことだかおわかりになりますまいけど、あなたの親切のおかげで、いままで知らなかった新しい高い世界が、とつぜん私の前にひらかれたような気がしているのです。……ほんとうに、思いもかけなかった新しい世界が……」
 そういうと、唇をふるわせながら、急に言葉をきってしまった。
 佐伯氏は、戦場でいろいろ痛烈な経験をしたので、それで、なんでもないことに感じやすくなっているのに違いない。キャラコさんは、佐伯氏の感情を乱してはいけないと考えて、できるだけしずかにしていた。
 しばらくすると、佐伯氏は蘆《あし》の中から木笛《フリュート》を取りあげて、ゆるやかに吹きはじめた。古い舞踏曲のようなもので、なんともいえない憂鬱な旋律だった。佐伯氏は、つまずいてはいくどもやり直しながら、終《しま》いまで吹きおえると、蘆の中へそっと木笛《フリュート》を置いた。
 キャラコさんが、たずねた。
「なんだか悲しそうな曲ですね。それは、なんという名の曲?」
 佐伯氏は、人がちがったような落ち着いたようすで、キャラコさんのほうへ向きかえりながら、
「これは、フランスの十七世紀ごろの古い舞踏曲で、『罪のあがない』という標題がついているんです。……舞踏曲にしては妙な名ですね。どんな意味なのか私にもわからない。でも、なんとなく好きで、こればかり吹いているんです。……それはそうと、私は、さっきから、あなたがどんな顔をしていられるのかと思って、いろいろに想像していたんです。……たぶん、やさしい美しい顔をしていらっしゃるのでしょうね」
 キャラコさんが、例の、大きすぎる口をあいて、笑いだす。
「あたし、美しくもなければ、やさしい顔なんかもしていませんわ。…
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