んの。……それも、あまりそんな顔をばかりしていると馬鹿だと思われるから、時々、何か気のきいたことをいわなくてはならないことになっていますの。……ずいぶん、たいへんでしょう? あなた、これについて、どうお考えになって?……すくなくとも、あまり楽でないことだけはおわかりになるでしょう?」
『恋人』は、いくどもうなずいてから、だしぬけに質問した。
「あなたは、結婚についてどんな考えを持っていられますか。結婚なさりたいですか」
 キャラコさんは、顔を輝かせて、
「ええ、結婚したいわ。……なぜって、あたし、子供がだいすきなんですもの。立派な子供を産むのがあたしの理想なのよ」
 窓の外で、剛子《つよこ》、と呼ぶ声がする。沼間《ぬま》夫人だ。沼間夫人は社交室に『キャラコさんの恋人』がいるので、嫌がってはいってこないのだ。
 キャラコさんはあわてて出ていった。
 窓のそとで、沼間夫人が、キャラコさんが槇子たちのお伴をして行かなかったことと、汚いやつと話していることをくどくどと叱りつけている。小さな声でいっているつもりなのだろうが、沼間夫人の声は甲声《かんごえ》だから、つつぬけに社交室までとどくのである。
 キャラコさんがもどって来ると、『恋人』が、いった。
「叱られましたね」
 キャラコさんは、首をふって、
「いいえ、叔母はあたしを叱ったりしませんわ。たいへん親切よ」
『恋人』は、底意地の悪い笑い方をしながら、
「ほほう」
 キャラコさんは、優しく抗議する。
「なぜ、ほほう、なんておっしゃるの。叔母はすこし口やかましいけど、でも、嫁入りざかりの娘が三人もいたら、優しくばかりはしていられませんわ」
「なるほど。……何だか、わたくしの話も出たようでしたね」
 キャラコさんが、正直にいう。
「じぶんの名を隠しているようなひとと親しくしてはいけないと、いいましたの」
『恋人』はうつむいていたが、急に顔をあげると、ぶっきら棒な口調で、いった。
「そんなことなら、わけはない。……叔母さんに、わたくしは山本というものだといって下さい」
「ご商売は?」
『恋人』は、考えてから、陰気な声でこたえた。
「手相術師《パルミスト》……、手相を見ます」

     五
 次の日、晩餐《ディナー》の時間になっても、槇子《まきこ》がなかなか帰って来ない。時計は、もう、七時をうちかけている。
 キャラコさんは、食卓の上のナプキンを眺めながら坐っていたが、すこし心配になってきた。
 沼間夫人は、剃り込んだ細い眉の間に立皺《たてじわ》をよせて、いらいらと食堂の入口の方へふりかえりながら、平気な顔で食事を始めている麻耶子《まやこ》に、
「あなた、槇子どこへ行ったか、ほんとに知らないの」
 と、また同じことをたずねる。
 マヤ子は、つんとして、
「いやアね、いくど同じことをきくの。だから、知らないといってるじゃないか」
「じゃ、槇さんといつどこで別れたの」
「伊東のトバ口ンところで。……潮吹岩《しおふきいわ》へ行こうってボクを誘ったけど、ボク、つまんないからいやだと断ってひとりで帰ってきたんだ」
「お連れは、どなたと、どなただったの」
「知らないよ、ボク」
「知らないわけはないでしょう」
「別れるときはひとりだったよ。別れてからのマキの連れなんか、ボク知るものか、千里眼じゃあるまいし」
「じゃ、ひとりだったのね」
 マヤ子は鼻で笑って、
「ふン、どうだか」
「なんです、ちゃんとおっしゃい」
「だから、どうだか、っていってるじゃないか、しつっこい!」
 何をきいても、もう返事をしない。澄ました顔で肉の小間切《こまぎ》れをいくつもつくっている。
 沼間夫人は食堂の電気時計と自分の腕時計をたがいちがいに見くらべながら、
「いやだ……。ほんとうに、なにかあったんじゃないかしら」
 キャラコさんは中腰になって、
「あたし、行って見ましょうか」
 夫人は、白眼をキラリと光らせて、
「行くって、どこへ?」
「そのへんまで」
 氷のような冷たい声で、沼間夫人がいう。
「よしてくださいね。あまり目立つようなことは、あなたにたのまなくても、いくらでも探す方法はあります」
 キャラコさんは素直にあやまる。
「ごめんなさい」
 そこへ、槇子が帰って来た。ひどく赤い顔をしているので、キャラコさんは槇子が風邪でもひいたのかと思った。
 ひょろひょろしながら三人の食卓の方へやってくると、不機嫌な顔で椅子にかけてナプキンをとりあげた。
 沼間夫人は安心と腹立ちがいっしょになったような声で、
「もっと、ちゃんとしてくださいね。いままでどこにいたの」
「傷病兵の慰問に行っていたんです」
 マヤ子は意地の悪い上眼づかいで、ジロジロと槇子の顔を眺めていたが、
「おい、酒くさいぞ」
 と、すっぱぬいた。
「なにおォ」
「つまり、いままで傷病兵と祝盃をあげていたというわけか。ヘッ、こいつァいいや」
 キャラコさんはおかしくなって、思わず、ぷッと噴き出した。
 槇子は、きッとキャラコさんの方へふりむくと、
「おやッ、笑ったナ」
 蒼くなって、眼をすえてキャラコさんをにらみつけていたが、突然、
「生意気だよッ、貧乏人」
 と、叫ぶと、いま、ボーイが置いて行ったばかしの熱いポタアジュのはいった皿を取りあげてキャラコさんの顔へ投げつけた。
 身をかわすひまもなく、皿はまともにキャラコさんの胸にあたって、顎《あご》から胸へかけてどっぷりとポタアジュを浴びてしまった。青豆のはいったどろどろのポタアジュが、衿《えり》から胸の中へ流れ込んで、飛びあがるほど熱いのを、そっと奥歯をかんでこらえた。
 広い食堂の中には、まだ六、七組の客が残っていて、あっけにとられたような顔でこちらを眺めている。
 キャラコさんは、長六閣下に、小さなことに見苦しく動ずるなと教えられている。キャラコさんにとってこれは大切な服だけれど、すぐホテルのランドリイへ出せばそんなにひどくなるはずはないし、もともと自分が笑ったのがいけないんだから、と、すぐ考えついて、素直に槇子にあやまった。
「マキちゃん、ごめんなさい。あたしが笑ったのが悪かったの」
 槇子はそっぽを向いて返事もしない。麻耶子は痛快そうに、眼の隅からジロジロとキャラコさんの顔を眺め、沼間夫人は眉も動かさずに、ご自慢の白い手で静かにスプーンを使っている。
 キャラコさんは、早く洗濯屋《ランドリイ》へ駆けつけたいのだが、中座していいものかどうかと迷っていると、いつの間にかうしろに秋作氏が来ていて、腕をとって椅子から立たしてくれた。
 槇子はそれを見ると、いまにも痙攣《ひきつ》けそうな物凄い顔になって、
「秋作、馬鹿ッ、馬鹿ッ」
 と、叫びながら、二人を目がけて手当りまかせに食卓の上のものを投げつけ、投げるものがなくなると、こんどは自分の服をピリピリとひき裂き始めた。
「みんなで、あたしひとりをいじめるッ。……よゥし、死んでやる、死んでやるから」
 二人が食堂を出てしばらく行ってからも、キンキンと槇子の声がひびいていた。
 服を着換えて社交室へおりてゆくと、社交室にはワニ君の一団と沼間夫人と越智氏と猪股《いのまた》氏がいる入口に近いいつもの椅子で、『キャラコさんの恋人』が静かに新聞を読んでいた。
 キャラコさんが入っていっても、誰ひとり口をきかない。ひどい目にあいましたね、と、ひとこというものもない。みな顔をそむけて知らん顔をしている。沼間夫人が、つい今までみなに自分の悪口をいっていたのだとすぐ気がついたが、そんな女々《めめ》しい想像をしないのが自分の値打ちだと思って、気にしないことにした。
 イヴォンヌさんが、気の毒そうにそばへ寄ってきて、
「熱かって?」
 と、ささやいた。
 キャラコさんは、笑いながら、そっとイヴォンヌさんの手を握って感謝の意を伝えた。
 キャラコさんが、イヴォンヌさんに、いった。
「この部屋に手相|見《み》の名人がいるのよ。あなた、そういうことに興味がおありになって」
 イヴォンヌさんは、面白がって、
「みなさん、この部屋の中に世界一の手相見の名人がいるんです。みなさん、ご存知?」
 と、大きな声で披露した。そして、キャラコさんのほうへふりかえって、
「どなたが、そうなの」
 キャラコさんは『恋人』の方をさししめしながら、
「あそこにいる、あの、山本さんて方」
 イヴォンヌさんは、すぐ『恋人』のそばへ飛んで行って、
「あなた、世界一の手相見ですって、本当?」
『恋人』は静かにこたえた。
「先生がまだ生きていますから、私は世界で二番目です」
 イヴォンヌさんは手を打ちあわして、
「あら、そうなら、そんなところにひっ込んでいないで、こっちへ出て来てちょうだい。見ていただきたいひとがたくさんいますわ」
 といって『恋人』の手をとって社交室の真ん中へ連れ出した。
『恋人』はいつものようなおどおどしたようすはすこしもなく、手をひかれながら部屋の真ん中まで出てくると、はっきりした声でいった。
「どなたでも、どうぞ。……お望みなら、お亡くなりになる年月日まで申しあげましょう」
『社交室』の一同はゾックリしたように、互いにチラチラと眼を見合わせた。山本氏の声の調子の中になにか、そんなふうな、ひとを竦《すく》みあがらせるようなものがあった。
 みな尻込みして、私、といい出るものもない。
 キャラコさんが、進み出た。
「わたしをみてください」
 キャラコさんと山本氏を真ん中にいれて、一同がそのまわりに輪をつくったとき、槇子が蒼い顔をしてはいって来た。
「いったい、何がはじまろうってえの」
 まるで女王さまからご下問でも受けたように、四方八方から異口同音にこたえる。
「世界一の手相見が、これからキャラコさんの未来を占うところなんです」
 マキ子は舌打ちをして、
「ちえッ、くだらねえ。……そんなところにいないで、みンな、こっちへ来いよう」
 しかし、誰も輪を離れてゆくものがない。
 山本氏はキャラコさんの掌《て》を眺めていたが、何か異常な発見でもしたように、おお、と低い感嘆の声をもらし、キラキラ光る眼で一同の顔を見廻したのち、低い声で語りだした。
「これは、実に非凡な手です。何十万のうちに、稀《まれ》にたった一つこのような手に出っくわす。……順序よく申します。まず、だいいちに、この方《かた》はたいへんに勇敢な気性だ」
 越智氏が、馬鹿にしたような口調でいった。
「みな尻込みしているうちに、最っ先に出てゆくんだから、そりゃア勇気があるほうでしょうな」
 みな、どっと笑いだす。
 山本氏は耳もかさずに、
「あなたは非常に健康で、これは、晩年までつづきます。聡明で沈着で、たいへんに忍耐強い」
 ワニ君が口を出す。
「それは、僕も認めます」
 シッ、シッ、という声が起こる。
「……卑猥《ひわい》にも不潔にもなじむことがない。あなたは生まれてからまだ一度も嘘をいったことがない。あなたは、この世で最も堅実で道義心の強いどの男性よりも、もっと堅実で道徳的です。実に稀な手ですね。……それから、この線! なんでもないこのちっぽけな皺の中に、わたくしは異例な運命を発見しました。この線を見ると、あなたにはたいへんな幸運と、一口《ひとくち》にいえないほどの莫大な財産が備わっていることがわかる」
 みな、わあッと笑い出す。なかでも、槇子の嘲笑がひときわ高くひびいた。
 山本氏は憫《あわれ》むような眼ざしで一同を眺めまわたしながら、
「その財産をいま持っていられるとはいっていません。しかし、わたくしは誓って申します。思いもかけぬような事情によって、このお嬢さんがその幸運をうけるのです。……みなさんはお笑いになるが、ご自分たちの未来について何を知っているというのです。自分が明日《あす》死ぬことさえご存知ないくせに。……私の見るところでは、この中に、そういう運命の方《かた》が一人います」
 もう、声を出すものもない。
 槇子が、揺椅子《ロッキング・チェア》から離れて山本氏の前に坐ると、だまって掌を差しだした。
 山本氏はその掌をじ
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング